あるとき、母子の祈る姿をみた。幼い女児が手のひらを合わせ、ひたすらに祈っている。何も願ってはいない。ただ畏怖の心だけで祈りつづけている。大人には絶対にできない祈りだ。藤原新也はそう語る。目で接触する。心で接触する。何十万回と。心のなかで手を合わせて撮る。その連続で、78歳になった。
「《旅》は無言のバイブルであった。《自然》は道徳であった。《沈黙》はぼくをとらえた。そして沈黙より出た《言葉》はぼくをとらえた。悪くも良くも、すべては良かった。ぼくはすべてを観察した。そして我が身にそれを《写実》してみた」
1972年刊行のデビュー作『印度放浪』序章は、そう締められる。「我が身にそれを《写実》してみた」と。己のからだへインプリントするかのようなこの表現、刺青(いれずみ)さえ想わせるこの言葉の選択に、なるほどそういうことかと合点がゆく。「写真家」と名指して済ませるにはブレの大きな表現者・藤原新也の核がここには凝縮されている。おそらく藤原新也はその初めから、フィルムへの映り込み、現像というイメージの操作術のみへ特化する専門家ではなかったのだ。本質的に、原理的に。だから言葉を書く。筆をとり書を描く。現場ではその実、歌い踊りすらしているのではないかと想像させる。
世田谷美術館《祈り・藤原新也》展は、その初めの旅立ちから半世紀にわたる藤原の活動を総覧する。初期から今日へ至る写真群と文章引用の束を軸としたその構成はときに絵画や書へと分岐し、ときに撮影行為はパフォーマンス・アートや舞踊の一部となる。雨傘革命をはじめとする香港民主化運動の現場で撮りためた作品群の展示室では、九龍に実在したポストイットの集合回廊〝レノン・ウォール(連儂牆)〟が再現され、その対面には渋谷で毎秋起こるハロウィン騒動の渦中へコロナ対策の防護服着用という姿で分け入り、若者を撮って回る藤原自身の映像が流されている。
ある中華系の女性が内覧当日、やや気色ばんだ口調でその展示意図を藤原へ問い糾すのを聞いた。渋谷の騒擾(そうじょう)は、ただの空騒ぎには見えない。この国固有の同調圧力の下、幼いころから本音と顔を消して生き続ける子らの、あれは叫びだ。藤原はそう切り返す。香港の若者たちと同じく、そこは切実なのだと。本展には香港政府による収監後、出所が伝えられるも公から姿を消した雨傘運動リーダーの1人・周庭(アグネス・チョウ)を大写しで捉えた作品も含まれる。それは山口百恵や大島優子、指原莉乃や伊藤詩織らの肖像写真と並置されている。力強く射抜くように、あるいは不安げに慄(ふる)えるようにこちらを見据える彼女たちのいずれもが、広範に流布された個や集団イメージの〝嘘〟をえぐり出す。
藤原の描く絵画もまた印象的だ。幼児を想わせる自由闊達な描画の余白は、おそらく利き手ではない手で書かれた、鏡文字さえ混じる物語で埋め尽くされている。表現とは内と外の交感であり、手法や媒体の分類が前提される営みでは本来ない。写真家、画家、作家と細分化された〝~家〟とは、消費社会システムの要請へ迎合したニセモノだと彼は喝破する。
いま筆者の手元には、枯色を帯びた1冊の文庫本がある。『印度放浪』文庫版第3刷。10代の筆者はかつてこの分厚い文庫をひもといてのち、インドへと旅立った。しかし今になって、本当に多くを見落としていたのだなとわかる。天井高のある第一展示室で初めに鑑賞者を迎えるのは、バリ島で撮られた蓮華である。高さ3メートルの画面は夜更けの薄闇を後ろ背に、開花したばかりの蓮の花弁を大写しで捉えている。朝露に濡れた花弁の一葉一葉は、人頭のサイズをはるかに超えて大きく引き延ばされている。それがリアルの大きさだからだと藤原は言う。心で受け取った大きさをそのまま作品にしたのだと。思えば彼の第1作『印度放浪』は、次の言葉から始まっていた。
「歩むごとに、ぼく自身と、ぼく自身の習って来た世界の虚偽が見えた」
真を写す。真に歩む。探究はなお続く。祈りそのものとして。
(ライター藤本徹)
世田谷美術館 《祈り・藤原新也》展
11月26日(土)~2023年1月29日(日)10~18時(入場17時半)、毎週月曜・12月29日(木)~1月3日(火)休館。
北九州市立美術館分館+北九州市立文学館 《祈り・藤原新也》展
2022年9月10日(土)~11月6日(日)北九州市立美術館分館 10~18時(入館17時半)/北九州市立文学館 9時半~18時(入館17時半)、毎週月曜(月曜が祝日の場合は開館し、翌火曜が休館)。
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