同志社大学良心学センター(小原克博センター長)は9月22日、同大学で公開シンポジウム「AI、キリスト教、そして良心––同志社で考えるAI・データサイエンス教育」を開催した。廣安知之(同志社大学生命医科学部教授)、小原克博(同大学神学部教授)の両氏が講演し、コメンテーターとして高橋徹(Stroly取締役会長・共同CEO)、鬼頭葉子(同大学文学部准教授)の両氏が応答した。
同シンポジウムは全国の大学で文部科学省が主導する「数理・データサイエンス・AI教育プログラム」関連授業が実施されていることを受け、AIやデータサイエンスに対する「キリスト教」や「良心」の存在意義や役割について議論することを目的としたもの。
廣安氏は、AI・データサイエンスがすでに小・中・高校の教育へ導入されていることから、同志社大学でも同志社データサイエンス・AI教育プログラム(DDASH)を2022年度より開始すると説明。全学部生を対象としたリテラシーレベルのものから応用基礎レベルのものまで、今後展開していく予定であると述べた。またAI・データサイエンスの活用については知育・徳育が重要であるとし、知識や技術だけではなく倫理・哲学的な視点も含めた文理融合的な視点が必要であると論じた。
続いて小原氏はAIとキリスト教をめぐって、「再帰的欲望」と「最適化」の二つの課題が存在すると指摘。「再帰的」とは、人間が造ったものから影響を受けること。人間の知能をモデルに設計された人工知能が社会実装された際、反対にそれらが人間の思考に影響を与えることが考えられる。聖書の記述から見た場合、神は自身にかたどって人間を創造した(「神の像」)が、その神に自分たちが成り代わろうとする自己神格化の歴史(「バベルの塔」の物語など)が存在する。ここに、人間とAIの再帰的関係と人間による神への再帰欲望が確認される。また「最適化」については、AIのアルゴリズムには設計者のバイアズが不可避的に反映されることから、選択環境の操作により個別化されたデフォルト・ルールに従うことが求められ、視野狭窄が発生する可能性を示唆。一方、聖書ではイエスによる毒麦のたとえ(マタイによる福音書13章24~30節)にあるよう、「最適化」ではなく終末に至るまで人知を超えた神の導きによる世界観の変化・拡張という視点が存在する。ゆえに人間はアルゴリズムがなければ作動しないAIの有限性を認識する必要があると述べた。
高橋氏はAI普及により想起される「最適化」について、研究者たちは必ずしもそれを目指しておらず、情報や記号といった基礎的なものの理解を深めつつ、社会への実装を想定していると述べた。鬼頭氏は「神の似姿(人間)」とAIには、知識や内的言葉の形成という類似が認められるが、愛などの関係性についてAIには形成し得ないとする差異も主張。今後、社会へのAI普及はさらに増加すると考えられるが、「関係性」や「愛の形成」という点にAIの本質的不可能性と人間の特殊性を見ることができるのではないかと述べた。
シンポジウムの模様はYouTubeでも視聴可能。