聖書には何度も「思いわずらうな」という言葉が登場する。モヤモヤとした不安、漠然とした緊張感。そんなものは持つなという意味である。
ぼくは牧師の卵だから、毎月教会でメッセージをしている。そして何度もこの言葉を語ってきた。「皆さん! 思いわずらわないで生きていきましょう!」。はてさて、では実際に思いわずらっていないのかと言えばそうではない。何喰わぬ顔をしているけど、「将来どんな自分になっているかな」とか「卒業論文書き終えられるかな」とモヤモヤしている自分がいる。
この思いわずらいはどうして起こるのだろう。このことをボンヘッファーは、「明日の安定を計ろうとすることが、私を今日こんなに不安定にするのである」と語っている。
「明日の安定を計ろうとする」――なるほど、確かにぼくたちの不安はたいがい未来に対して抱くものなんだと思う。子どもも大人も関係なく、みんなにある漠然とした不安。確かに神学校で話していると友だちの悩みはたいてい将来の職業について、大人の方と話していると多くの悩みは老後の生活について。歳は違えど、人間というものは目に見えないものに対する恐怖がやはりあるのだと思った。
逆に言えば「思いわずらう」とは、人間誰しもが抱く普通の感情なのだと思う。だけど、これに縛られすぎていたら明日どころか今日も生きるのが辛くなる。じゃあどこに思いわずらわない、安心する根拠を持てばいいのだろうか。ボンヘッファーはこう言う。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。明日をまったく神の手にゆだね、今日生きるために必要なものを受け取る者だけが、真実の安定を得るのである。
われわれは次の日、次の時のことを思いわずらう必要はまったくない。神のみが、思いわずらうことが可能である。なぜなら、神はこの世を支配しているからである。われわれは、思いわずらうことが不可能であるからこそ、思いわずらうべきではないのである。われわれは、思いわずらわないことによって、神の支配を自分のものとすべきなのである。
思いわずらう時、そこには自分の姿しか見えていないかもしれない。また、ぼくたちが未来にどれほど不安を抱いても、それを調整できるわけがない。だからボンヘッファーは言うんだ。そんな時こそ、神様を見よと。
キリスト教とは、聖書の教えとは、ぼくたちがひとりじゃないということをずっと語り続けている。どんな時にも神様が隣にいると言う。嬉しいことがあれば一緒に喜んでくれて、悲しいことがあれば慰めてくれて、もう生きていくのが辛い、こんな人生はクソだと嘆きたくなる時に一緒に泣いてくれる神様がここにいる。そして、その神様はあなたと世界をつくり、今も支配していると言うんだ。
世界を支配している神様は、文字通り世界を隅々まで知っている。つまりぼくたちに必要なものももちろん知っているのだと言う。そしてその神様は、今日ぼくたちに必要なものを知っているだけじゃなくて、与えてくれる存在なのだと言う。それが何かは分からない。なぜなら一人ひとりの人生があるからだ。だから今日も神様は、一人ひとりに必要なものを、どんな形か分からないけど与えてくれているのだと思う。
だからぼくたちが思いわずらう時、自分自身に囚われるんじゃなくて神様と神様の言葉に目を向けたい。ほんの一瞬でもいい。すると今まで心にひっかかっていた何かがポロリと落ちていくかもしれない。
明日はどんな日だろうか、来年は何をしているだろうか。誰にも分からないし、分かる必要もないのだと思う。それは神のみが知っている。今の思いわずらいを、全部は無理かもしれないけど一つずつ、ちょっとずつ神様に委ねてみよう。明日は違う景色が待っているかもしれない。
ふくしま・しんたろう 牧師を目指す神学生(プロテスタント・東京基督教大学大学院)。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。