コロナ禍の初期段階で教会が閉鎖されたとき、多くの牧師は対面式の礼拝の一時的な代替措置としてオンラインに目を向けた。教会は、礼拝を信徒の自宅に配信し始めたのだ。当時はいいアイデアだと思った。確かに、何もしないよりはマシだった。しかし、ここで問題が発生する。私たちの多くが数週間と想定していたものが、数カ月になり、1年をはるかに超える期間になってしまった。暫定的な代案として始めたことが、快適な習慣となったのだ。「クリスチャニティ・トゥデイ」への寄稿を紹介する。
オンライン礼拝には確かに利点がある。便利で、遠くまで届き、アクセスしやすい。そのため、直接集うことが再び可能になった後も、多くの牧師がオンライン礼拝の選択肢を残している。しかし、オンラインの教会には、その利点をはるかに上回る欠点がある。それは擬似的な交わりであり、近くにいることで得られる真の深みを伴わない、外見上の関係を提供する。近くにいることは必要ないという概念を助長するのだ。
私は、オンライン礼拝は、在宅の信徒や免疫不全の可能性のある人々への奉仕のような、ある文脈では価値があると信じている。しかし、今日そのような懸念を持たない多くのクリスチャンは、オンラインの教会に慣れてしまい、毎週会堂に足を運ぶことの有効な代替案とみなしている。
私たち聖職者は、オンライン礼拝についてさまざまな意見を交わしながら、ある一つの疑問に焦点を絞ってきた。「なぜ、地域の教会は直接集まらなければならないのか?」 ルカは、1世紀の教会について四つの答えを与えていると思う。「一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒言行録2章42節)。オンライン礼拝が聖徒の近しい交わりに永久に取って代わるとき、これらの四つの実践は難しくなる。オンラインを選択する信者は、彼らが失っているものを理解しているのだろうか?
使徒たちの教え
神のみ言葉の学びを、オンライン講義やTED Talkを見るような学問的エクササイズとして扱うことは、神の啓示に対して失礼にあたる。信者は日曜の礼拝での聖書の宣言への参加者である。この行為は共同体的なものであり、孤立して行われるものではない。そして、説教は1人だけが話すものだが、会話するものであり、理想的には、体の中で対話と内省を引き起こすものだ。「使徒の教え」を受け取ることは、単にネットで上手な話し手を眺めることではなく、神の自己開示に心を開くことなのだ。単独で説教を見るのは一時的なものに過ぎないはずだ。私たちは教会員に、神の言葉が栄える共同体的文脈を軽視しないよう直接奨励する必要がある。私たちは神の民として、神が語られたことを共に聞き、共に味わう共同体の中の弟子なのだ。
フェローシップ
アナリストのマーシャル・マクルーハン氏は、”The medium is the message”(メディアはメッセージ)という格言を作った。インターネットは人間関係を再定義した。私たちはまったく知らない人を「友達」と呼ぶことに慣れ、近接した共同体のユニークな価値を無視するようになった。初代教会にとって、交わりの意味は明確だった。それは、人が本当に知ることができる励ましの共同体の集まりだ(ヘブライの信徒への手紙10章25節)。毎週教会で、私は個々の会衆を歓迎する。私たちは互いに話しかけ、彼らの表情や身ぶりを見る。このような非言語的なメッセージは、オンラインメディアではほとんど見えない。しかし、キリスト者が直接集まれば、言葉にならないものが見えてくる。心の痛みを隠したり、喜びを抑えたりすることが難しくなるのだ。直接会うことで、仲間の信徒はあなたの姿を見ることができ、あなたの嘆きや喜びの季節に参加することができる(ローマの信徒への手紙12章15節)。この必要性は、近接した共同体の中で最もよく満たされる。
パンを裂くこと
時代の経過とともに、パン割きの意味が薄れている。効率的な聖餐式は、ウエハースとブドウジュースの入った可塑性のシンブル(板金)を標準化している。しかし1世紀には、聖餐式は食事の一部として行われていた。一緒に食事をすることは大切なことであり、親密なものだったのだ。私たちの教会では、キリストの砕かれた体と流された血の象徴は確かに大切だが、この記憶への参加の重要性はしばしばあいまいにされている。教会の人々が主の食卓を単なる形式的なものに変えてしまうと、直接会う集会がインターネットでの同時配信に負けてしまうのは当然のことだ。しかし、聖餐式を、キリストが私たちのために耐え忍ばれた肉体への痛みを繰り返し体現する恵みの行為として認識することは、信徒が集まって一緒にそれを受けることの意義を理解する助けとなる。私たちは律法主義的な形式を守るために集まっているのではなく、イエスの犠牲を例証するために集まっているのだ。
祈り
私は改心の日、「あなたはイエスをあなた自身の主、救い主として受け入れますか?」と尋ねられた。この気持ちはありがたいのだが、このように救いを個人化すると、共同体のアイデンティティーの感覚が薄れてしまうことがある。聖書は繰り返し、共同体としての祈り、例えば共同体としての願いや悔い改めを強調している(歴代誌下7章14節)。初代教会は、この神聖な行為に共に参加する必要性を認識していた。信徒が集う時、祈りはユニークな方法で私たちに力を与える。共に祈ることによって、地域教会は神の導きを求め、神の主権に委ね、聖霊の力に共に寄り添うことができるのだ。確かに、祈りには重要な個人的要素があるが、祈る信徒を結びつける日曜日の集まりを犠牲にしてはならない。
見逃し感を演出
私は、なにも教会はオンラインをすべて放棄すべきだと提案しているのではない。しかし牧師は、オンラインを教会に通うことの代わりとして宣伝することなく、このミニストリーをどのように提供するかを戦略的に考えなければならない。私たちが採用している戦略の一つは、オンライン礼拝ではなく、週に1回、礼拝のビデオを投稿することだ。視聴者は日曜の朝という選択肢を持ちながら、集会に参加できないことを実感する。見逃したという感覚は、効果的な嫉妬心を生み出す。
オンライン礼拝は、コロナ禍の初期には天の恵みだったが、この一時しのぎの手段では、集まった地元の教会に完全に取って代わることはできない。牧師として、私たちはこのことを知っている多くの人々は、私たちがこのことを言うのを聞く必要がある。私たちは、オンラインの視聴者に対面礼拝に参加するよう促すことで、その視聴者たちに奉仕する。
私たちは、使徒の教え、パンを裂くこと、交わり、祈りのために集まるが、これらは聖書にある共同体による礼拝の特徴だ。画面を通して「教会に行きなさい」と勧めるよりむしろ、直接、繰り返し、教会を体現できる集まりに誘うことができますように。
*ブランドン・ワシントンは、デンバーのエンバシー教会の説教とビジョン担当牧師。著書に「A Burning House」(ゾンダーバン)。
(翻訳協力=中山信之)