Q.聖書には不思議な出来事が数多く書かれています。これら奇跡とされるものを、どのように理解すべきでしょうか?(50代・女性)
奇跡は、聖書全体に見受けられます。旧約では、モーセの起こした奇跡が有名で、教会学校で劇として演じられたりします。杖を蛇に変えたり、ナイル川の水を血に変えたりと七つの奇跡を行います。そして最後の一つは主の過越で、神自らの救いの出来事でした。当時奴隷状態だったイスラエルの民を解放するために、これら奇跡は、神から遣わされた者であることを信じさせるため、でありました。
ヨハネによる福音書では、奇跡を奇跡とは呼ばずに、「しるし」と言います。「しるし」という言葉にヨハネが固執しているのは、事柄そのものに捉われるのではなく、主であるキリストを信じるためであるというのです。
また、奇跡の理解は、主の祈りの言葉、「み国が来ますように。み心が行われますように、天におけるように地の上にも」の祈りとも関係があります。天のみ心が地でも行われる、そのことです。
私の義兄は筋ジストロフィーの患者でした。その兄が22歳の時にこう言っていたことを思い出します。そのころはまだ杖をついて歩ける状態で、すでにクリスチャンでした。「神さまのみ心ならば、もしこの病気が治ったら、僕は同じ病気の人々のために働きたいから、法律を勉強するんだ」「天国では、僕は癒やされている。もしみ心ならば、地上でも」と言っていたことを思い出します。
兄は、52歳で亡くなりました。奇跡は起こりませんでした。しかし、兄の生涯は奇跡であったと思うのです。地上の不便さ、辛かったこと、苦しかったこともあったでしょう。しかし、「天では癒やされている」その信仰を持って地上の生涯を歩んだからです。
奇跡の理解は、主の十字架と復活を信じられる、そこが中心です。そして、信仰生活の中で、その恵みを体験しつつ深められていくことになるのです。
ひらおか・まさゆき 1950年、福岡県生まれ。日本ルーテル神学大学神学部(現ルーテル学院大学)、日本ルーテル神学校卒業。83年より日本福音ルーテル教会牧師。85年から統一協会、94年にはオウム真理教信者の脱会支援に着手するなど、長くカルト問題に取り組み、カウンセリング活動を続けた。共著書に『マインドコントロールからの解放』(三一書房)、『啓示と宗教』(サンパウロ)など。2009年、58歳で逝去。