私がふだん話しているヘブライ語には、男性形と女性形、さらに単数形と複数形がある。例えば「学生」と言う時には、男子学生(単数)、男子学生(複数)、女子学生(単数)、女子学生(複数)の四つの言い方がある。それに「親愛なる」という形容詞をつけるならば、それも四通りに活用する。
私がヘブライ語を習い始めた1980年代には、複数の人間がいる場合、そこに男性が1人でもいれば男性複数形、女性だけなら女性複数形を用いるということだった。だが後に、その場にいる人のうち男性が多数なら男性複数形、女性が多数なら女性複数形を使うことに決まった。イスラエルには正式なヘブライ語について決定する機関(ヘブライ語アカデミー)=写真=がある。
ざっと見てどちらが多数か分かる時はいいが、判断がつきかねる時は困ると思っていたのだが、近年は男性形と女性形を併記すべしということになった。つまり学生宛てのメールには、「親愛なる(男性複数)男子学生(男性複数)および親愛なる(女性複数)女子学生(女性複数)のみなさんへ」と書くのである。ヘブライ語は語尾の変化で対応できるから、文字で書く場合はスラッシュ(/)を入れて語尾だけ併記すればいいので、さほど煩雑さは感じない。だがこれを口に出して言うとなると、全部最初から繰り返すので、私などは途中で舌が回らなくなってくる。
この改革の背後にある考えは、たいへんよく分かる。既存の公的機関には男性が多く、そこにいる女性はいつも男性形に飲み込まれた少数派だと感じてきただろう。教育機関の試験問題に女性形を併記したところ、女子学生の成績が上がったという研究結果もある。その一方で女性が多い場所にいる男性が、女性形の表現に自分が含まれることに抵抗感を覚えることも想像に難くない。今まで女性がそうだったのだから今度は男性の番だというのは解決ではない。どのような場合でも両性併記すれば、外見とは異なる性自認をもつ人も言及対象に含めることができる。私の勤務大学の学生組合も、「学生(男性複数形)組合」という名称から、「男子学生女子学生(共に複数形)組合」に変わった。今のところこれが最も妥当な解なのである。
従来は男性形が無徴あるいは一般性を示す表現という役割を担ってきたが、両性が併記されることで男性形も「男性」という徴を帯びていることが浮き彫りになる。これまでは男性形は一般を、女性形は女性というある種の例外を示してきたが、今では男性形も女性形も等しく特殊性を帯びたものになったのだ。それはまことに正しい。
正しいのだが、こう明確に男性形と女性形を常に目の前に突きつけられていると、世界はことほどさように男性と女性の二つに分かれているのかという気もしてくる。今までは男性複数形の中にあいまいに回収されてきた、両性に共通する、あるいはそこからはみ出た部分までもが、くっきり区分けされなければならないという圧迫感である。性を持つ言語という制約の中で中立的表現を模索するヘブライ語が、今後どのように変化していくのか、見守りたい。
ヘブライ語では、発話する時点で男性か女性かを明示しなければならない。目の前にいる学生に話しかける時は、名前、外見、声などから男性か女性かを推測するのだが、昨今はなかなか判断が難しいこともある。そのような時、誰に対しても苗字に「さん」付けで社会生活が回っていく日本語の便利さを、改めて思い出すのであった。
山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)
やまもり・みか 大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。1995年より現職。著書に『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルの日常生活』など。昨今のイスラエル社会の急速な変化に驚く日々。