Q.お金や食べ物の施しを求めて牧師館を訪ねてくる人に、どう対処すべきか迷っています。(30代・牧師)
本当に迷いますよね。キリスト教といえば何といっても隣人愛です。イエス様も、飢えている人に食べさせたことは、実は「私にしたのである」(マタイによる福音書25章40節)と語っています。
しかし、しかしなのです。牧師館での対応は特に難しいですよね。来る方にも応じる方にも牧師館でなされる隣人愛は、こうであるべきとそれぞれに思い描く素敵な理想がありますから。中でもお金の問題は難しいのではないでしょうか。
ルカによる福音書の善いサマリア人は、倒れていた見知らぬ旅人を介抱しただけでなく宿代として2デナリオン(労働者2日分の賃金で2万円ぐらい)を出しています。この話を知っている者としては、できることならお困りの方に気前よく2万円ぐらいは手渡したいところです。おそらくその方も喜んでくださることでしょう。とはいえ、それはかなり大変です。
善いサマリア人が、たとえお金を出さなかったとしても、倒れていた人に歩み寄り手当てをしただけで、十分に善いサマリア人だと思うのは私だけでしょうか。
大切なことは、牧師やその家族も人間なのですから、できないこともあると謙虚に受け入れ、気持ちの面でも経済的な面でも無理はしないことです。その上でイエス様の教えを胸に、訪ねて来られた方の誠実な友として、もう少しだけ自分にできることはないか考えてみてはいかがでしょう。
たとえば、来られた方にお金を渡すことはできなくても、食べ物を渡すことは本当にできないのでしょうか。空腹は命にかかわることもあります。一方、牧師館の冷蔵庫を開ければきっといろいろな物が入っているはずです。その方とのやり取りが不安なら、ドアチェーンは掛けたままにしておけばいいのです。
いや、むしろそうした注意深さは不可欠です。疑いたくはないですが、あなたの命も大事です。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイによる福音書22章39節など)です。隣人愛は自分をないがしろにすることではないんですよ。
やました・ともこ 福島県生まれ。同志社大学大学院神学研究科博士課程(前期)修了