Q.祈りが聞かれたかどうかは、どうすればわかりますか。(10代・女性)
出した手紙や宅急便が確実に相手に届いたかどうか何故わかるのでしょう。それは相手から「届きましたよ」との反応があるからです。ところが祈りには、このようなわかりやすい反応がない。ですから祈っても本当に神は聞いているのか、自分の祈りは単に独り言にすぎないものではないかなどと不安になります。
私自身、祈るという行為がまるで誰も受け止めてくれないボールをただ投げるだけに感じられ、たまらなく空しくなる時があります。「神はいるのか? いやいないのでは?」と感じ始め、何度祈っても答えられないなか、冷たい地べたで一人ぼっちでしゃがみ込んでしまう私です。
そんな時、「祈りは必ず聞かれます!」と元気よく神を賛美しながら信仰生活を送っている人々を見ると、自分はつくづく一人ぼっちだと思うのです。
でも本当に私は一人でしょうか? いいえ! 見回すと、私のそばにいにしえの信仰者の言葉が寄り添っているのに気付きます。
「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。……呼び求めても答えてくださらない」(詩編22:2~3=新共同訳)
ごめんなさい、あなたの祈りが聞かれたかどうか、私にはわかりません。ただ、祈りが聞かれていない、というやり切れなさを、心底理解しているのも聖書です。正しい信仰者の祈りに神が答えるかどうか、それも私には不明です。けれど「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。……わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27:46)と叫ぶイエスが、たとえ私が神に見捨てられたとしても隣にいてくれることは知っています。
人であるとは、この地上で這いつくばって、祈りが聞かれないという痛みと空しさを味わって生きるということ。その痛みと空しさを共有するために、イエスは「人」となってくれたのではないでしょうか。
しおたに・なおや 青山学院大学宗教部長、法学部教授。国際基督教大学教養学部卒業、東京神学大学大学院修士課程修了。大学で教鞭をとる傍ら、社会的な活動として、満期釈放を迎える受刑者への社会生活を送るための教育指導をはじめ、府中刑務所の教誨師として月1度ほど、受刑者への面談や講話を行う経験を持つ。著書に『忘れ物のぬくもり――聖書に学ぶ日々』(女子パウロ会)、青山学院大学の人気授業「キリスト教概論・Q&A」が書籍化された『なんか気分が晴れる言葉をください――聖書が教えてくれる50の生きる知恵』(保育社)など多数。