Q.同じ聖書から正反対の主張をする牧師がいて、どちらを信じればいいのかわかりません。(30代・男性)
「東京は世界のさまざまな人々や文化が出会う豊かな町です」との意見に、特に反論はないでしょう。では「東京は自然も少なく、住環境は厳しく、経済格差が広がる貧しい町です」との意見はどうでしょう。これもまた否定できない東京の一面です。
東京という一つの都市に、豊かさと貧しさという矛盾した要素が共存しています。旅行パンフレットに載る平面的な東京ではなく、現実に存在する生きた東京は、安易な一面的な評価を拒みます。日本の首都は多様な解釈を成立させる懐(闇)の深さを持っています。この多様な解釈がぶつかり合って、新たな東京の魅力(課題)が発見されるのも事実です。
聖書も死んだ過去の言葉、古文献にすぎないなら一面的な解釈で終わるでしょう。しかし今も生きるキリストの愛を記す書物である限り、その「愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」(エフェソの信徒への手紙3:18~19)ためには、多様な解釈が混在し、ぶつかり合うことが避けられません。いやダイナミックな主張の対立を通して、より深い真理が啓示される場合もあります。
むしろ気になるのはあなたが複数の牧師の考えにふり回されている、という点です。「どちらの牧師が正しいか」と立ち止まって悩むよりは、「どちらの牧師の主張が、聖書的な根拠を持っているのか」この際検討してみてはいかがですか。
ベレアの人々は、無条件でパウロを受け入れたのではなく、パウロの説教が正しいかどうか、「毎日聖書を調べていた」(使徒言行録17:11)ようです。牧師という一個人を通して聞かされる説教は、神の恵みという大海からすくい取った、ほんの一しずくにすぎません(学びを深めた牧師ほどそのことはわきまえています)。一しずくの違いにふり回されることなく、心を静めて今一度聖書の言葉(大海)に漕ぎ出してみてください。
しおたに・なおや 青山学院大学宗教部長、法学部教授。国際基督教大学教養学部卒業、東京神学大学大学院修士課程修了。大学で教鞭をとる傍ら、社会的な活動として、満期釈放を迎える受刑者への社会生活を送るための教育指導をはじめ、府中刑務所の教誨師として月1度ほど、受刑者への面談や講話を行う経験を持つ。著書に『忘れ物のぬくもり――聖書に学ぶ日々』(女子パウロ会)、青山学院大学の人気授業「キリスト教概論・Q&A」が書籍化された『なんか気分が晴れる言葉をください――聖書が教えてくれる50の生きる知恵』(保育社)など多数。