長引くコロナ禍で、礼拝や伝道が思うようにできないもどかしさを誰もが抱いている。不自由な生活を強いられ、感染の恐れにとらわれ、先行きの不安を感じる日々。「ソーシャルディスタンス」のかけ声で人と人との距離が広がり、分断や差別も社会を蝕んでいる。
私たち一人ひとりに何が求められているのか。教会としてNPO法人に取り組む「ホッとスペース中原」理事長の佐々木炎氏(日本聖契キリスト教団中原キリスト教会牧師)が、『希望する力』(晴佐久昌英、片柳弘史 著/キリスト新聞社)の対談に感銘を受け、カトリック上野・浅草教会主任司祭の晴佐久昌英氏を招いて対談を行った。形は違えど、見つめる先には同じ夢がある。世界的な危機の中で、教会は、宣教はどんな変化を求められているのだろうか。(本紙・松谷信司)
〝特殊な活動〟ではなく広く浅く
福祉は本来「教会の働き」
中原キリスト教会の教会員は約30人。同じ建物を「ホッとスペース中原」と共有し、公的な支援制度も活用しながら、牧師の佐々木氏と約80人のスタッフを通して、間接的に高齢者、障がい、子育て、触法者支援などを手がけている。コロナ禍では、他にも自殺予防やひきこもり、虐待やDVの支援も増えた。
「ホッとスペース中原」のスタッフは7割がノンクリスチャン。信徒であることを採用の条件にもしていない。無論、利用者に洗礼を勧めたり、直接的な「布教」をしたりすることもない。約20年前の創立以来、「そんな働きは宣教ではない」「福祉は専門家がやるものであって、教会がやるべき最優先事項ではない」との批判にさらされてきた。
しかし、佐々木氏はあくまで「教会の働き」であることにこだわる。「受洗者を増やす、献金額を増やすことが教会の本質ではありません。もともと福祉の働きを担っていた教会が形骸化し、地域性を失ってしまいました。迷える羊は教会の中だけでなく、外側にもいる。そういう意味で地域に出ていくのは当然だし、それこそが宣教だと考えています」
今回、対談企画にあたって「ホッとスペース中原」を訪問・見学した晴佐久氏は、教会が地域共生社会を支える拠点となっている様子に感服。「理想として描いていた血縁を越えた家族づくりを、すでに実践している教会があった」と驚きつつも、「資格を持ったスタッフがいて、この規模の建物があるからできることで、とても自分にはできないと思っている人にも、これならできるかもと思ってもらえるように」と、自身の実践を共有した。
カトリック信者の両親のもとに生まれ、幼いころに洗礼を受けた晴佐久氏の原体験は、自宅に教会の仲間が大勢出入りし、毎日のように食事を共にしたという楽しい思い出。多い時で年間1千人の来訪者があるような、若者たちの「たまり場」だった。当時の喜びが忘れられず、そうした生活を生涯続けたいとの思いが神父を志す動機にもなった。小さな楽園のような、血縁を越えた家族をつくるというのが夢だった。
晴佐久氏が考える家族の定義は、「何かあったら必ず助け合う仲」。少なくとも月1回は一緒にご飯を食べるというグループを複数作り、「福音家族」と名付けた。その数はすでに20を超える。そのモチベーションは、人を助けたいというよりも、仲間と共に生きていきたいという思いの方が強い。
昨年末の大みそかには、毎月炊き出しで出会うホームレスの方々を招き、「紅白歌合戦」を見ながら年越しそばを食べた。「まるで天国みたい」と言ってくれたおじ氏もいた。しかし、食べ終わるとそれぞれの生活にまた戻っていってしまう。そこでふと考えた。もし、30人が月1回の食事会を開けたら、毎日違う人の家で、途切れなく食べつなぐことができる。みんなが体験した「福音家族」を、それぞれがそれぞれの場所で実践する。特殊な神父の特殊な活動ではなく、社会全体が、広く浅く支援できないか。
「福音家族」を始めたそもそものきっかけは、ある時期から教会に鬱や統合失調症、ひきこもり、発達障害といった課題を抱える青年が増えたこと。それまで晴佐久氏のもとに来ていたのは、比較的元気な若者が多かった。次第に、行く当てのない青年を教会で世話をする必要も出始め、互いに助け合う「チーム」の必要性を痛感する。
「イエスがしていたのは、まさに家族づくりだった。教会の礼拝や組織、委員会がどうとかではなく、家族づくりができて初めて教会だと気づかされました」
一方、中原キリスト教会や「ホッとスペース中原」では、「支える側」「支えられる側」という一方通行の関係性をやめる努力をしているという。すべての人には、社会において「役割」がある。それを現実のものとするため、利用者にも「役割」を担ってもらえる環境を整えている。「生きづらさ」や「弱さ」と言われるものが、一人の人、地域、社会を変えていく「力」になると佐々木氏。
「国によるトップダウン型ではなく、ボトムアップ型の本当の意味での地域共生社会について、教会も福祉関係者も一人ひとり考えるべき時に来ていると思います」
(全文は「Ministry」47号に掲載)