長谷川町子生誕100年 記念館7月にオープン 苦難の時代にこそ「日常」を 母譲りの信仰と意外な関係 2020年12月25日

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記念館(長谷川町子美術館分館)前のモニュメントと館長の川口淳二さん

日本学術会議の人事介入を機に、天皇機関説事件、滝川事件と共に戦前の言論・思想弾圧事件として再注目された矢内原事件。日中戦争の始まった1937年、著書が反戦思想だと糾弾され、東京大学を追われた矢内原忠雄は、無教会の伝道者としても活躍した経済学者であった。しかし、この矢内原が国民的漫画「サザエさん」の作者である長谷川町子と親交があったことはあまり知られていない。

熱心な信仰者であった母の教えにより、クリスチャンとして歩んだ町子は、雑誌の取材に「私、なまけ者で、会の集まりにもほとんど行ってないので、あまりえらそうなこと言えませんけど……」と語っている。自身の半生を漫画で綴った自叙伝『サザエさんうちあけ話』(朝日新聞出版)には、聖書にまつわる逸話もたびたび登場する。

今年生誕100年を迎え、今なお世代を超えて愛され続ける漫画家・長谷川町子とキリスト教との意外な関係を探るため、7月にオープンしたばかりの長谷川町子記念館を訪ねた。

国も宗教も超えて愛される作品
矢内原忠雄、田河水泡との思い出も

■ファン待望の記念館

木のぬくもりに包まれた明るいエントランスを抜けると、おなじみ「サザエさん」「いじわるばあさん」などに登場するキャラクターが来館者を迎えてくれる。館内では代表作の原画をデータと書籍で閲覧でき、絵本やぬり絵など、親子連れも楽しめるコンテンツが充実している。ポップでレトロな昭和の世界観を体感できる工夫が随所に施されており、こだわりの限定品などが堪能できるショップ&カフェも併設されている。

1985年に開館した長谷川美術館(町子の死後、長谷川町子美術館に改名)は、姉の毬子と収集した美術品を展示することを目的としていたため、町子の漫画資料は展示されておらず、来館者からの要望で特設コーナーを設けるなどして対応してきた。しかし、美術館の向かいに土地を入手できたことから、これまでスペースの都合で展示できなかった資料を展示するための記念館を生誕100年の節目に合わせて開館することとなった。

当初、美術館のリニューアルと同時に今年4月のオープンを予定していたが、コロナ禍で急きょ7月に延期。入館者数も限定せざるを得ない時期もあったという。開館を待ちわびながらも、まだ来館できていないファンも少なくない。

館長を務めるのは、町子が3人姉妹で立ち上げた姉妹社に入社した1976年以来、出版の手伝いや運転手などをしながら家族ぐるみでも親交があった川口淳二さん。記念館の開館に際し、「町子先生が知ったら、『なに余計なことをして!』と怒りながらも、心の中では喜んでもらえるんじゃないか」と話す。「『サザエさん』と『いじわるばあさん』を足して2で割ったよう」と川口さんが評する長谷川町子とは、どんな人物だったのか。

■町子の生涯とキリスト教

町子自身は「サザエさん」の連載が軌道に乗り始めたころ、表現者が自らの才能を過信してしまわぬよう自戒を込めて、こんな一文を綴っている。「『書かずにいられなくなったときにしか書いてはいけない』というトルストイの言葉はおそらく創作に当たる者の金科玉条なのだと思います。そして単に創作に限らず、宗教の伝道においても、子弟の教育においても同様のことが言えるのではないでしょうか。私どもは、何時ごろから、そして、どうしてあの『楽園』を喪失したのでありましょう。……私どもの働きは、いわば与えられたものであり、一人ひとり分に応じて務めをさせていただくのであります。与えられたものを『私の能』として盗むとき、働くことの喜びと自由が逃げて行くのでありましょう。与えられる者が、与える者の立場に立とうとするところに根本の誤謬があるのだと思います」(『長谷川町子思い出記念館』朝日新聞社)

「お前たちは立派な天分を持っている」と励まし続けた母の教えや、幼いころから読んでいたであろう聖書の影響が垣間見える。町子が13歳の時に父が病死。翌年、一家で上京した町子は憧れでもあった漫画家の田河水泡に師事する。しかし、住み込みでの内弟子生活に耐え切れず「毎週教会に通いたいので、日曜日は帰らせてほしい」と願い出たところ、隣が教会だからちょうどいいと、田河夫妻と共にメソジスト教会へ通うはめになった。当時のことを町子は、『うちあけ話』の中で述懐している。

「これがもとで、お二人は、そろって洗礼をうけられ、ただ今先生はもとより、特に奥さまは、著名な伝道者としていそがしく全国を走りまわっていられます。私は私で、『あとなる者は先に、先なる者はあとに』という聖書のたとえの生けるサンプルとして、また神様のお役にたっております」

目黒区中根町の今井館で行われていた矢内原忠雄の聖書講義には、母の勧めでたびたび足を運んだ。妹の結婚式の司式も務めたという矢内原と、初めて言葉を交わした際のエピソードも作品として残されている=画像下。矢内原の机には、聖書と並べて『サザエさん』が置いてあったらしい。

©長谷川町子美術館(『サザエさんうちあけ話』)

「サザエさん」を休載していた時期には、2度にわたってイスラエル旅行に行き、聖書も毎日欠かさず読んでいた。朝日新聞での対談では、「私、だんだんと聖書が面白くなってきましてねえ、特に、旧約を面白く読みました。あそこに出てくる神様は原始的で面白いんです」と感想を語っている。家に迷いこんだ捨て犬に「モーゼ」と名付けてかわいがっていたとの逸話もあり、「乳児のときにナイル川に捨てられたという身の上が、捨て犬の運命に共通するものを感じての命名だった」とされている。

■「非日常の中に庶民の日常を」

町子は1944年に入社した西日本新聞社で、戦時中の紙面に漫画ルポや挿絵を描いていた。歴史学者の有馬学(福岡市博物館館長)は、これらの資料から長谷川作品の普遍的な意義を読み取る。「戦争や敗戦、戦後の混乱という現実は、今日の私たちには想像のつかない極限的な非日常の世界である。しかし、町子はそのような非日常の中に庶民の日常を発見している。庶民は非日常的な日々を日常として生きるほかはない。町子はひたすら観察し、それら日常の中のおかしさをギャグにする。めそめそベタベタしない一種の乾いた視線こそが、困難な日々を生きる庶民に寄り添った『サザエさん』を生んだのだと思う」(「東京人」2020年5月・425号)

記念館の開館後、家族の遺品から発見した町子直筆の手紙など、貴重な史料も寄贈されるようになった。「町子先生の作品は、国も宗教も超えて多くの方々に観ていただきたい作品。後世に残していかなければ」と思いを語る川口さん。記念館のオープンが、コロナ禍の苦難の年に重なったことは偶然ではないかもしれない。生誕から100年を経てなお、日本初の女性漫画家が残した功績の数々は、今こそ必要な視点と時代を生き抜く活力を私たちに届け続けている。(本紙・松谷信司)

漫画『サザエさん』に登場する壁時計、ブラウン管テレビ、ちゃぶ台などで再現した昭和の六畳間。

【企画展 漫画原画にみる1964東京五輪】

期間:2020年10月10日(土)~2021年1月11日(月・休)
場所:長谷川町子記念館2階 企画展示室
〒154-0015 東京都世田谷区桜新町1-30-6 Tel 03-3701-8766
時間:午前10時~午後5時半(受付締切4時半)
休館日:毎週月曜日、年末年始(12月28日~1月4日)
入館料:一般 900(800)円、65歳以上800(700)円、大学生・高校生 500(400)円、中学生・小学生 400(300)円
*( )内は20名以上の団体、障がい者手帳をお持ちの方とその介護者。
*美術館・記念館の両館共通。

長谷川町子生誕100年のあゆみ
1920年 佐賀県で生まれる
1922年 一家で福岡県福岡市大字住吉に転居
1932年 福岡県立福岡高等女学校入学
1933年 父・勇吉が死去
1934年 一家で上京。田河水泡に入門
1935年 天才少女漫画家としてデビュー
1937年 矢内原忠雄が東京大学を辞職
1944年 福岡市早良区に疎開。西日本新聞社に入社
1945年 終戦。西日本新聞社を退社
1946年 夕刊フクニチに「サザエさん」連載
再び一家で上京。姉妹社設立
1947年 『サザエさん』出版
1949年 夕刊朝日新聞に「サザエさん」連載
1951年 朝日新聞朝刊に「サザエさん」の連載の場を移行
1964年 初の海外旅行で欧州各国訪問
1969年 フジテレビがアニメ「サザエさん」放送開始
1978年 朝日新聞日曜版に「サザエさんうちあけ話」連載
1985年 財団法人長谷川美術館開館
1987年 「サザエさん通り」(桜新町商店街)誕生
1992年 心不全のため死去、享年72
1993年 姉妹社解散
2012年 姉・毬子死去(享年94)
「サザエさん通り」(福岡市早良区)誕生
2020年 長谷川町子記念館開館

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