今年はコロナ禍の影響で大学、神学校の授業も様変わりした。新年度、緊急事態宣言の発令を受けて上半期はほぼオンラインに移行。とりわけ全寮制の学校は、細部にわたる感染対策に追われることになった。秋からは対面での授業も再開したものの、留学生を含め一部の学生は、まだ元通りの学習環境を取り戻せていない。新型ウイルスの全容も分からないまま、今も手探り状態が続く中、牧師の養成機関はどんな葛藤を抱え、どう克服しようとしているのか。集まった教師たちは、教派的背景、地域、規模とも三者三様。これからの「新しい神学教育」と各校が描く将来像について語り合った。
【参加者】写真左から
・齋藤五十三(東京基督教大学神学部助教)
・鎌野直人(関西聖書神学校校長)
・濱野道雄(西南学院大学神学部教授)
物事の本質を共に学ぶ経験
〝私たちの希望は本物かが問われる〟
――オンライン授業が主流になっていると聞いていますが、各校の現状を教えていただけますか?
齋藤 私たち東京基督教大学(TCU)は4月の半ば初め ごろに、今年度はオンライン授業に移行すると決めました。正直、逡巡する中でやむを得ずの決断でありました。もともとオンラインはまったく選択肢 にありませんでしたので、実際、準備期間としては1カ月弱しかなく、よく準備できたなと思います。たいへんなこともありましたが、特に学生がかなりコミットしてくれて、手分けして他の学生のインターネット環境などを調査したりしてくれて、そういう協力があってスタートを切ることができました。今振り返ると、本当に恵みだったとしか思えない春学期のスタートでした。
今も9割方の科目がオンラインですが、どうしても帰寮した方がいい状況の学生だけ条件付きで戻ってきています。そうした学生は対面授業なので、いわゆる対面とオンラインとの併用です。
鎌野 私たちの関西聖書神学校は学生が10人足らずの神学校ですので、1週間の準備期間ですべての授業をオンラインに移行しました。緊急事態宣言が解除され、6月1日から学生が全員戻ってきたのですが、7月の初めまでは旧校舎で授業を行ってきました。本校は寮生活を重んじており、原則は2人1部屋なのですが、この4月からは1人1部屋に変えました。6月以降は、ソーシャルディスタンシング、手洗い、マスク着用という基本的な感染予防対策を行いました。講師も神戸や大阪と、近隣の方が多いので、車で来校していただきました。7月初めに前期の授業が終わり、新しい校舎に引っ越しました。9月からは新しい校舎での授業が始まっています。場所が広くなり、最新の基準に則った換気設備であるため、ある程度、対策はとれています。1人1部屋という点に変更はありませんが、ほぼ通常の形態に戻っています。ただ、教会実習に関しては、教会の現場がかなり苦労しておられるため、例年ほどはできていません。
――新校舎の工事には影響がなかったのですか?
鎌野 工事を継続するかどうか、3月に入って議論をしましたが、工事の最終段階に至っていましたので、何とか予定通り終わらせることができました。ただし、もうあと数カ月遅かったらたいへんだったかもしれません。
――規模によってかなり状況が異なるようですね。
濱野 牧師になるための神学コースは人数も少ないので、普段とあまり変わりなくできた面もありましたが、人文学コースは人数が多く、対応に苦慮しました。コロナ禍で教員たちもいつも以上に時間とエネルギーとかけて準備しているのですが、学生たちもたいへんで、誰も得してない悲しい状況が続きました。ただ、特にオンラインについては、教員よりも学生の方が使いこなせますので、いろいろ教えてもらいながらここまで来たという印象です。前期はすべてオンライン授業という形になりました。課題のレポートをメールで出して、データで提出してもらって赤を入れて返して……という、手間がかかる割に「本当に伝わっているんだろうか」という不安を感じながらこなしていました。後期になって少し緩和されてからは、いつものような授業に戻っています。
授業以外で言うと、神学部のチャペル礼拝が週に1回あるのですが、Zoomによる配信環境をいち早く学生たちが整備してくれて、継続することができました。大学全体のチャペルの方では、話者によって「ネットに流されては困る」とか「礼拝なんだから誰が聞いてもいいはず」とか、意見が多様で、礼拝とは何かという議論をしながら、「これが正解だ」とすっきりすることはなく、一つひとつ選び取りながらここまで来たという感じがしています。良かった点は、チャペル礼拝に卒業生ものぞきに来てくれたり、他教会の人たちや、あるいは海外の講師にもメッセージをしてもらったりできたことですね。
教会研修(実習)については、教会によって受け入れの対応が違っています。「こういう時に恐れてはいけない。何があっても主日礼拝を守るんだ」という教会もあれば、逆に活動そのものを一切止めてしまった教会もある。次々と状況も変わっていく中で、「礼拝とは?」「教会とは?」「宣教とは?」など、神学生たちとの話題には事欠きませんでした。良さと悪さともどかしさと、いろいろ入り混じった感じですね。
卒業したばかりの牧師たちも心配です。特に赴任1年目は信頼関係を作るのが仕事ですから。特に用がなくてもZoomで集まったり、時々声をかけ合ったり、互いに励まし合ったりしていました。
――コロナ禍への対応で逆に気づかされたこととなどはありますか?
齋藤 一つは、こうした危機の時に本当に大事なものが何か、物事の本質、本当に守らなければならないものは何か、ということを考えさせられました。時に厳しい学びではありましたが、コミュニティとして何が大事なのかということを大学全体で、学生も教職員も共に学んだという経験にはなったと思います。
私たちの誰もが痛感していることは、今まであったキリスト者としてのコミュニティ、交わりの中で生きるということの大切さですね。そしてそれをオンラインのようなリモートの状況で、どのように継続していくかということにずいぶん腐心しました。私たち自身が励まされたのは、学生が自分たちでさまざまなことや機会を捉えてつながり始めて、励まし合い、支え合い、祈り合う姿を見ることができたことは、たいへん喜ばしいことでした。
もう一つは、「私たちが握っている希望が本物かどうか」ということが問われました。大学のリーダーシップを取る先生方がいつも前向きに希望を語ってくださり、「これからの時代に私たちに必要な学びの機会が与えられている」と、いつもキリスト教の世界観からコミュニティを励ましてくださいました。そうしたリーダーシップのあり方も本当に大事だなと痛感しました。
(後編は11月21日付に掲載)