約10年の歳月をかけて編纂された『日本キリスト教歴史人名事典』(以下、『人名事典』)が、ついに8月下旬から店頭でお披露目されている。最新の研究成果をふまえ、日本のキリスト教史に名を残した5,147名に及ぶ膨大な記録が収録されている。本事典は1988年刊行の『日本キリスト教歴史大事典』(以下、『大事典』)収載の人名項目の全面的な増補改訂という位置付けだが、『大事典』を愛用してきたという著述家で「教会ウォッチャー」の八木谷涼子さんが、この際、出版社に聞いてみたいという質問を率直にぶつけてみた。
――八木谷さんが『人名事典』に関わったきっかけから教えていただけますか?
八木谷涼子(以下、八木谷) 2016年、キリスト新聞社創立70周年記念礼拝に出席した折に、あいさつされた教文館の渡部満社長が『人名事典』を編集中であることを紹介されました。かねてから『大事典』をよく利用し、外国人宣教師の没年などを書き込んでいたので、特に頼まれたわけではありませんが、最終的に500人超の生没年情報をデータで、教文館宛に提供しました。『大事典』には本当にお世話になってきました。「今まで一番よく用いてきた紙の事典は何ですか」と聞かれたら、おそらくこの本を挙げます。
教文館出版部(以下、教文館) 長年ご愛読いただきありがとうございます。『大事典』は日本キリスト教史全体を網羅した唯一の事典として多くの方にご愛用いただいてきました。刊行から30年以上が経ったわけですが、その間に大きく変わったことがあります。コンピューターの普及と、インターネットの登場です。必要な情報へのアクセスが瞬時に行われ、膨大な知の遺産が手軽に入手できるようになりました。それに伴い、事典全般が右肩下がりで売れなくなりました。パソコンにひと言入力すれば、即座に、無料で調べものが完了する世界が到来し、アナログな事典が見向きもされなくなりました。そんな逆風に抗しての今般の『人名事典』の発刊になりますが、編集者として強調したいのは、これは決して時代遅れの出版ではないということです。
八木谷 紙の事典にしか載っていない情報があるというのが、年中調べものをしている者の実感です。もちろん、紙の本ならどれでも信頼できるというわけではないし、情報のアップデートという面ではネットに比べて劣勢なのは否めませんが、きちんとした執筆者と編集者の方とで作り上げた信頼できる事典が、現実に販売されて、手に入るというのはありがたい話です。デジタル化されていない良質な事典っていっぱいありますよね。紙でもネットでも(有償で)参照できるというのが理想です。
教文館 インターネット上の情報は玉石混淆です。貴重な最新の研究がジャーナルに掲載されている場合もありますが、古い情報、誤った内容、偏った記述、出典不明の文章が『事典』と銘打たれて載っている場合もあります。その点、すべてが専門家の手によって作られている紙の事典は信頼に足るものと言えますし、万一記述に誤りが含まれていてもその責任の所在が明らかです。特にこの『人名事典』は、希少性の高い項目も多数立項されているため、ご指摘の「紙の事典にしか載っていない情報」が満載です。
実際に、Wikipediaで日本キリスト教史関連人物が項目になっている場合、『大事典』が主な情報ソースとして挙げられていることが多く、時には唯一の出典になっていることさえあります。また、情報アップデートの面ではネットに敵わないのは確かですが、この時点の研究ではここまでしか分かっていない、といった線引きをすることも重要ではないでしょうか。
今回の『人名事典』は完全にデジタルで作成されていますから、パッケージの形であれネット上での公開の形であれ、データ提供は難しくないと思います。せっかくの執筆者、改訂者の苦心の成果が十分に生かされず埋もれたままになるのは、編集者としても口惜しいので、前向きに検討したいと思います。また、収録人名リストの公開についても同様です。
「名もなき信仰者」の掘り起こし
『大事典』から人名増補 希少性の高い項目も多数
八木谷 今回、『大事典』に編集顧問、刊行委員、編集委員として名前を連ねた方々の多くが新しい項目として収録され、まさにキリスト教史の1ページとなりました。掲載する項目の人選はどのように決められたのですか?
教文館 各教派の有識者25名から挙げていただいたリストをもとに、編集委員と数名の協力者の方とで編成した小グループに分かれて検討しました。この検討作業の段階では、『大事典』の時代と比較して研究が深まったキリシタン史関連の人物や、「ニコライ日記」発見でニコライの宣教当時に関わった日本人名などが追加項目リストに多数挙げられました。本来ならば積極的に採用したいところでありましたが、そうした分野はいずれ専門の事典がまとめられるであろうという期待を込めて、各教派のバランスに配慮して選定することになりました。
項目選定の特徴として『大事典』と大きく違うのは「福音派」関係です。新規追加を充実させるよう努めたほか、ホーリネスやバプテスト関係の項目が『大事典』の記述について事実関係が不明瞭であったり学校名の変遷を追いきれなかったりした点も散見されたので、各教派の歴史に詳しい先生にしっかり改訂していただきました。
『人名事典』では、単に『大事典』刊行後に亡くなった関係者を加えただけでなく、先に没していたものの『大事典』に収録されていなかった重要人物も大幅に加えてあります。また、『大事典』では教会で献身的な生涯を送った「名もなき信仰者」の掘り起こしがその特徴に挙げられていましたが、『人名事典』では教会外で(教育・福祉・医療・政治などの諸分野で)活躍した人物を積極的に選定するという方針でした。パートナーの信仰に従う形で晩年に洗礼を受けた方の場合、足跡の中にキリスト教の影響を確証できる史料がないために立項を見送ったものもあります。
いずれにしても、人物の選定作業だけでもひと苦労でした。また選んだものの、書き手がなかなか見つからないというケースも少なくありませんでした。結果として672人が追加されたわけですが、それでも読者の皆さんは「この人を入れてほしい」「あの人はなぜ入っていないのか」という思いをお持ちになるかもしれません。
しかしそれは、日本におけるキリスト教の影響の射程が広大無辺であり、今なお求心力を持っているという証左とも言えるでしょう。今後の研究の発展が期待されるという意味で、この事典は「日本キリスト教史の里程標」なのです。
『大事典』の執筆者は総勢1200名でした。「日本キリスト教」に関する初めての大事典でしたので、会社としても一大事業でした。『人名事典』ではそのオマージュとして関係者を中心に収録項目を選定したというわけではありませんが、1970年代後半から80年代に日本のキリスト教を牽引した錚々たるお顔触れなので、『人名事典』に登場されるのは不思議なことではないのでは? むしろこの機にまとめておかなければ、「その人のことをよく知っている方」が亡くなってしまうという焦りがありました。そして『人名事典』関係者でも、完成のご報告をできずにお亡くなりになった方も何人もおられます。刻々と時代が移り変わっていくことを感じさせられました。
八木谷 感激したのは、英学史の分野で尊敬している手塚竜麿さんを見つけたこと。何年か前に国会図書館で手塚さんの消息を探したのですが、つきとめられませんでした。今回の『人名事典』に入ったことで、やっとすっきりできました。手塚さんは本の中だけで知る方でしたが、何人か実際にお目にかかったことのある方のお名前を発見して。もう亡くなって10年以上経つのか……と。
『人名事典』の使い方としては、もちろん頭から通読するのもいいのですが、クロスリファレンス(相互参照)の「*」印を活用して、ウェブのリンクをクリックするように進んでいくのも楽しいと思います。巻末の人名索引を眺めるのもお勧めです。例えば内村鑑三の数字が多い。津田梅子の父、津田仙も多い。数字の多さイコール言及数の多さですから、その人の影響力を直感的に計ることができます。
『大事典』から増補改訂されたのは人名部分のみなので、新しい事典が出たから『大事典』は処分してしまうという勘違いは絶対にしてはいけませんね。
教文館 そうなんです。新しい『人名事典』では、立項されている人物名にアステリスク「*」を付しているだけでなく、『大事典』収録の用語にも付しています。その人物についてもう少し深く知りたい方は、『大事典』も開いていただくことを強くお勧めします。『大事典』はまだ絶賛販売中ですので、お持ちでない方はこの機会にぜひご入手いただけると幸いです。図書館の皆様も、「旧版だから」と誤って廃棄されないようにお願いします。
縁(ゆかり)の教会を訪ねる機会にも
『大事典』との併用がお勧め
八木谷 正直、個人で買うのは金額的に少し厳しいかもしれませんが、教会で買って図書室に供えておく価値はあると思います。あるいは、近隣の公立図書館にリクエストして、レファレンス資料として購入してもらうとか。
教文館 『人名事典』では、学校図書館や教会、地域の図書館で多くの方に長く使っていただくことを目標に、本の造りも頑丈に、紙も裏写りしない用紙を選びました。高いとお感じになるかもしれませんが、日本の職人さんの手仕事の対価という側面もあります。そして何より内容の豊富さが値千金です。他の事典には出ていない貴重な記述が満載されているという自負があります。唯一無二の事典として、キリスト教学校だけでなく、近現代日本の政治経済、教育、医療、福祉、文化など、あらゆる分野の研究をされている教育機関と図書館、マスコミの資料室に備えていただきたいと思います。
八木谷 確かに堅牢な装丁で、厚い紙が使われています。長期の使用に耐えてくれそうですね。さっそく自分の本に書き込みを開始しました(笑)。
教文館 この事典を地域の図書館にリクエストして入れていただけると、教会関係者だけでなく一般の方にも読んでいただくチャンスが生まれます。NHKの『歴史秘話ヒストリア』や『ファミリーヒストリー』のネタ帳のような事典ですから、教会のことをご存じなくとも読んでいただければ案外面白いと思っていただけると思います。そうした中から人物に縁(ゆかり)の教会を訪ねてみようかなとか、この人の本を読んでみようかなと……。最終的には、ご近所の教会に行ってみようかなと思っていただけたら嬉しいですね。
八木谷 縁の教会探訪、実行しています(笑)。お邪魔したいくつかの教会のこと、そこで親切に対応してくださった皆さんのことを思い出すと、胸が熱くなります。同じ教会に問い合わせた者同士ということで、ある牧師さんが他の研究者に紹介してくださったこともありました。今ではその方は、得がたい友となっています。教会がつないでくれた嬉しい縁ですね。
――貴重なお話をありがとうございました。
八木谷涼子 やぎたに・りょうこ 1960年福岡県生まれ。著述家。キリスト教の教派とその独特の専門用語に多大な関心をもつ。著書に『なんでもわかるキリスト教大事典』(朝日文庫)、『キリスト教の歳時記』(講談社学術文庫)『日本の最も美しい教会』(エクスナレッジ)、『もっと教会を行きやすくする本』(キリスト新聞社)ほか。歴史論考に「セイヴォリー船長と箱館の商人ウィルキー」『新島研究』2020年第111号。
監修者のことば
鈴木範久(立教大学名誉教授)
日本のキリスト教は、1549年にイエズス会の宣教師ザビエル(シャヴィエル)により伝えられて以来、今日までに500年近い歴史が流れた。
近代日本におけるキリスト教受容の流れは、一時は文明開化の風潮にのって急速に進展したものの、しだいに国家による宗教統制の強化、さらには戦時体制の拡大のなかにあって停滞を余儀なくされた。信徒たちの間にも、国家体制に対する順応にとどまらず、屈従、妥協、さらには転向、背教までみられたことは否定できない。他方、その流れの中にあっても、超越的存在に対する信仰、博愛、義と罪の思想に基づいて、伝道はもとより、教育事業、福祉事業、社会および労働運動、文学、音楽などの芸術活動など、きわめて多方面、多領域において地道に活動し足跡を遺した人達もいた。
この事典は、『日本キリスト教歴史大事典』に収録された人名に補訂を加え、さらに約670名を増補、新たな人名事典として刊行するものである。本書をひもとかれるならば、随所で意外な人々がキリスト教信徒であったり、あるいはキリスト教の大きな影響を受けていたりする事実に驚かれるであろう。
この事典が、広く日本の各分野における調査、参考に資するとともに、一般読者の方々に読み物としても、思いがけない人との出会いをもたらすことを期待してやまない。
(すずき・のりひさ)