コロナ禍における「新しい日常」で避けるべきなのは、日本語では「密」だが、ヘブライ語では「ヒトカヘル」というヒトパエル態の動詞(集まる、直訳は「カハル=集会あるいは会衆」になるという語感)で表される。ヘブライ語の動詞は原則として3字からなる語根で形成されるが、その活用は七つの態(あるいは型)に分類される。ヒトパエルはその一つで、再帰、相互、自動詞、受け身の意味をもつ。よってこの語には「自ずと集まる」、相互動作の意味に取ると「互いに集まる」というニュアンスもあり、この語について最近考えるようになった。
現代ヘブライ語辞書を引くと名詞カハルの意味は、民衆、会衆、公衆、集団、観衆や聴衆と出ている。聖書におけるカハルは、例えば創世記49節6節では「仲間(新共同訳)」あるいは「集会(協会共同訳)」、民数記22章4節では「群衆(新共同訳、協会共同訳)」、申命記31章30節では「会衆(新共同訳、協会共同訳)」などと訳されている。
現在イスラエルは第2波のただ中で、イベント会場やバーは閉鎖。マスク装着義務違反の罰金は500シェケル(1万5000円)に上がったが、厳しいロックダウンは経済的な影響が大きすぎるので回避されている。レストランは屋内席20人、屋外席30人まで、宗教施設内での祈祷は一室10人までと集まる人数が制限されている。この制限人数の多寡がユダヤ教宗教派と世俗派の間の綱引きで、宗教派はなぜレストラン屋内席が20人で祈祷は10人なのかと主張し、レストランも10人になりかけたのだが激しい反発でまた20人に戻ったりして、もうこれらの数字のどこに科学的根拠があるのか分からない。
だがこの状況下でも市民のデモ権は守られており、政府のコロナ禍対応批判デモが警察の許可を得て、エルサレムの首相官邸前、テルアビブのラビン広場、カイサリアの首相私邸前等で大規模かつ頻繁に行われている。彼らの主張は、経済的打撃を受けたのに補償金は不十分、医療施設や人員を充実させる予算も出さず第2波に見舞われた失敗と自らの汚職を認めず地位に固執するネタニヤフは退陣せよ、というものである。また彼らに対抗して首相支持勢もデモを行い、それに暴力行為が伴ったという報道もある。さらに警察も解散時刻後にも帰らない(警察が道を塞いで故意に帰さなかったという証言あり)デモ参加者に対して過剰な放水を行い負傷者が出た。
いくら戸外とはいえ、数千あるいは万人単位で人が集まり、2mの距離を互いに取るのは無理がある状態でマスクをずらして主張を叫んでいるのだが、デモが感染源になり得るかという問いに対しては、政府のコロナ対策総責任者も、その他の医療専門家も「きちんとマスクをして2mの距離を取っていれば……」「デモは市民の基本的権利なので……」と歯切れが悪い。デモそのものをやめろとは絶対に言えないのだろう。
我が家の近所の交差点でも毎週安息日明けに近所の数十人が集まり、政治的主張を書いたプラカードを通る車に向けて掲げ、ブブゼラを鳴らしている。家族連れや「私は独身です」という札を持った若い男性もいて、政治的主張だけでなく、とにかく何となく集まることが目的という雰囲気も漂っている。今は仕事もリモートが多く、本当に用がある時に以前から知っている人と会うためだけに出かけるのが日常となったわけだが、こうして見るとデモというのは自ずと集まるというヒトパエル態の動詞にまことにかなっている。
かつて宗教派が規則を無視して集まるのを激しく批判した世俗派もデモには集まってくる。人間というのはその本来の性質として群れたいものなのかもしれず、宗教派の集会が世俗派のデモに相当するのかと思ったのであった。
山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)
やまもり・みか 大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルの日常生活』など。授業がオンラインに切り替わり、画面に流れる学生からのコメント読み取り能力向上が課題。