イングランドのロックダウンは大幅解除され、英国人の拠り所であるパブも再開した。夕方に隣人と交わる憩いの場である。といえども、社会的距離を取りながらの再開のため、パブの代名詞であるカウンターは閉鎖されたままである。見知らぬ人と肩を並べて隣人となる文化のこれからに、危機を覚える論説も多い。
もう一つの拠り所である教会もその扉を開くことができたが、まったく従来と同じようにとはいえない。礼拝は人数制限があり、聖餐も霊的陪餐のみ、聖歌を歌うこともままならない。イングランド国教会はオンライン礼拝の併用を推奨している。しかしながら、久しぶりの隣人との再会は互いを勇気づけるものである。
私事であるが、3月半ばから妻がCOVID-19疑いで自宅待機となった。コロナ禍の初期のためPCR検査はまだ受けられなかった。英国政府のガイドラインに則り、家族全員が2週間の完全隔離となった。妻は別室で隔離となり、子どもたちとの会話はタブレットを通してのビデオ通話となった。私も妻と実際に会うのは、ドアの前に食事や着替えを運ぶ時のみである。
高熱が引いたかと思うと、また新たな発熱を繰り返し、彼女の疲労は溜まっていく。食欲はほぼないため体力は低下し、回復まで合計3週間を要した。幸いなことに危惧していた後遺症は見られなかったため、数カ月経った今、やっと胸をなで下ろしている。
COVID-19の辛さの一つは、家族という最も身近な隣人との接触が不可能になるところにある。発症すると完全に隔離され、誰かの手を握ることすらできない。身体が弱まっている時に人は孤独を覚えるものだが、その慰めの機会が奪われてしまう。これは当人だけの問題ではない。その人と会いたい人々も、例えばその人の愛を必要とする子どもたちも、孤独を味わう。
この時、人は祈らざるを得ない。祈りは人を勇気づける。妻の病状の回復とコロナ禍で苦しむ人々への祈りを食前に捧げる子どもたちの姿は、ビデオ通話を通して妻と私の慰めとなった。また、当時は食料を買い出しに行くこともできないため、多くの隣人が私たちのために働き、心身共に支えてくれたことに感謝している。
このような状況が常態化している人たちが世界には多くいる。私の住む村にある老婦人がいる。彼女は教会の元オルガニストだったのだが、病気のため、ここ数年人々との接触を絶っている。免疫力が低下しているため、不特定多数の人たちと会うことはおろか、自分の子どもたちとハグすることもできないのだ。
そんな彼女がコロナ禍の人々の拠り所となった。彼女は毎日曜日に窓を開き、聖歌などをピアノで演奏し始めたのだ。隔離が常態化している彼女が、孤独に怯える人々を慰め、隣人となる。そこに集められた人々は、同時に彼女自身の隣人ともなるのだ。ここに、祈りと働きがある。主の日には、確かに慰めと復活が与えられている。
教皇フランシスコは聖ベネディクトゥスの「祈り、かつ働け(ora et labora)」という言葉を次のように解釈している。「祈りの中において、神の愛と、他の人々に対する神の優しい気遣いを生き、もたらす力が私たちに与えられる。私たちが誰かのために働き、愛を実践することが、私たちを主へと導く。私たちは困難にある人々の中に主を見出すからだ」と。
困難の中において、「祈り、かつ働く」こと、「隣人となる」ことの意味を、共に再考していきたい。
與賀田光嗣(立教英国学院チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会を経て現職。妻と1男1女の4人家族。