日本聖公会(植松誠首座主教)主教会は7月28日、「戦後75周年 8.15平和メッセージ」と題する声明を管区事務所サイト上で公開した。
メッセージは冒頭にフィリピの信徒への手紙(2:6~8)の聖句を掲げ、戦後日本が憲法で「戦争の放棄」を謳った背景に、「約2,000万人のアジア、太平洋地域の人々と約300万人の日本国民の血が流されたこと」を挙げ、「多くの犠牲者の血によって、今の日本の平和が贖われていることを、私たちは決して忘れてはなりません」と言明。
「最近では憲法の文言を変えて、また、その解釈を変えて、再び戦争が出来る国家にしようとしてい」るとの懸念を表明した上で、「奪うのではなく与え合い、憎むのではなく赦し合い、敵対するのではなく愛し合うなら、人と人との関係に和解がなされ、平和が生み出されるはず……。キリストのように従順に身を低くし謙遜に生きるなら、私たちは、平和を生み出す者となれる」とし、「個人同士、社会と社会が、そして国家間でも、3密を避けた中でのお付き合い、平和を作り出すきっかけが隠されているはず」「私たちの平和への歩み、たとえそれが小さなわざであっても、そこにこそ神の御国が実現していくと私たちは信じて、戦後75周年の今、勇気と希望を持って進みましょう」と呼び掛けている。
全文は以下の通り。
主にある兄弟姉妹の皆様へ
主の平和が皆様と共にありますように。
今年は、1945年8月15日、日本が敗戦を認め、連合国軍に無条件降伏を行なってから75周年を迎えました。
1931年の満州事変に始まり、1945年まで続いた戦争は15年戦争と呼ばれ、双方で多くの犠牲者を出しました。その人々の命に贖われて、戦後日本は、平和を目指す国家と生まれ変わりました。その大きな表れが日本国憲法です。
憲法の前文には、日本国民は、恒久平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚すると述べ、その平和の実現のために第9条に於いて、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求して、戦争を放棄することと、その目的を実現するために、陸海空軍、その他の戦力を保持しないと、謳っています。
日本国憲法第9条「戦争の放棄」は国際社会に大きな驚きを与えました。外交手段のひとつとしての戦争を放棄し、世界平和を願うと訴えたからです。「戦争の放棄」を憲法に謳った背景には、太平洋戦争に於いて、約2,000万人のアジア、太平洋地域の人々と約300万人の日本国民の血が流されたことがあります。多くの犠牲者の血によって、今の日本の平和が贖われていることを、私たちは決して忘れてはなりません。
しかし、日本は「戦力を保持しない」はずにもかかわらず「自衛隊」を組織し、また、自国防衛の名のもとに専守防衛以上の武器や戦力を保持しようとしています。その戦力を保持し増強するために、私たちの多くの税金が使われています。また、二度と戦争をしませんと、国家として誓いをしたにも関わらず、最近では憲法の文言を変えて、また、その解釈を変えて、再び戦争が出来る国家にしようとしています。
戦争は、いきなり起こるものではありません。戦争の原因は、多くあります。領土の拡大、資源の確保、あるいは争奪、政治的な圧迫、武力による威嚇などがあり、その他にも、差別、偏見、人種間・民族間の争い、貧困、搾取、支配と被支配など、私たちの日常生活の中にある様々な問題が、戦争の火種としていつもくすぶっています。
自由、平等、平和は誰もが願っているものです。しかし、それが実現できず、私たちがその内の何ひとつも得ることが出来ないのは、私たち人間の自国優先主義や自己中心の故ではないでしょうか。
私たちキリスト者の間でも、み言葉はいつも忘れられています。キリストは私たちに隣人を愛し、敵を愛し、人を赦すように教えられ、そのために自ら十字架上に命を投げ出されました。しかし、私たちは、自分の目の梁を見ることなく、人のあらを見つけ、人を赦すことなく非難し、隣人を愛するのではなく妬み、羨みます。隣人よりも自分を優先し、身を低くするのではなく驕り高ぶり、他人から尊敬され、敬われたいと願っていることがとても多くあります。その私たち一人ひとりの思いと罪が膨らみ、それが多くの人の思いとなっていて、国家間の戦争や内乱、内戦を起こしているのではないでしょうか。
キリストが自らを低くして十字架に架かり、犠牲となられたように生きることがキリスト者の生き方なら、そこには争いが無くなるはずです。奪うのではなく与え合い、憎むのではなく赦し合い、敵対するのではなく愛し合うなら、人と人との関係に和解がなされ、平和が生み出されるはずです。キリストのように従順に身を低くし謙遜に生きるなら、私たちは、平和を生み出す者となれるはずです。
今年は、新型コロナウィルス感染拡大の影響によって3密を避けるようになり、私たちの生活に変化が出てきました。3密を避けるとは、互いに適度な距離を取り合って、良き関係を作ることでもあります。近すぎず、遠すぎず、対話を続け、お互いに必要なものを与え合う。それが争うことのない、良い関係なのではないでしょうか。個人同士、社会と社会が、そして国家間でも、3密を避けた中でのお付き合い、平和を作り出すきっかけが隠されているはずです。
「わたしたちを平和の器にしてください」という祈りは、日本聖公会が戦後50周年を迎えた折に、宣教協議会を開いて以来、今までずっとささげ続けている祈りです。不安や恐れ、危険や困難、悲しみ、苦しみの中にいる人たちに心を向け、その人々と共に歩むということ、それを私たちは何よりも大切な宣教の課題に据えてきました。私たちの平和への歩み、たとえそれが小さなわざであっても、そこにこそ神の御国が実現していくと私たちは信じて、戦後75周年の今、勇気と希望を持って進みましょう。
2020年8月15日
日本聖公会 主教会