わたしは、既にそれを得たというのではなく、既に完全になっているといるわけではありません。なんとかして捉えようと務めているのです。
フィリピの信徒への手紙3章12節(参照箇所同書3:12〜16)
この地上において、完全な救いに達することはないのだとパウロは言います。完全な救いは、終わりの日まで待たねばなりません。逆に言えば、終わりの日があるということは大きな慰めです。救いが完成されることを待ち望むことができるからです。
この地上においては、すべては完成への途上にあります。その意味において信仰もまた途上のものであります。パウロは、このことを知って、「わたしは、既にそれを得たというのではなく、既に完全になっているといるわけではありません。なんとかして捉えようと務めているのです」と言っているのです。
洗礼を受け、信仰を告白したので、立派なクリスチャンになったと自負する人はほとんでいないことでしょう。誰しもが、こんなクリスチャンでよいのかと自分に問い掛けているはずです。これは正しい信仰者の問いです。ほんものの信仰者であれば、その問いを問わないことはありません。それこそパウロが言うように、「なんとかして捉えようと務めている」証拠です。信仰者が途上にある信仰をごまかすことなく、告白している証でもあります。