キリストのゆえにわたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
フィリピの信徒への手紙3章8〜9節(参照箇所同書3:5〜11)
パウロはキリストと出合ったばかりに、すべてを失い、今また、敵対者によって捕らえられ投獄の憂き目に遭うに至っています。
福音に生きるには、もはやキリストによる以外、彼には選択の方法はありません。しかしながら、このような事態にまで至ったことを仕方がないことだと受動的に受け止めてはいないのです。これまで持っていたもの価値はキリストと出合うことで失ってしまったことは事実です。しかし失うことは、キリストを得た証でもあります。キリストを得るために持っていたすべてを「塵あくたと見做(みな)す」のです。
それは、彼がキリストと自分のものを見比べて、我がものを「塵あくたと見做す」というより、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています」(8節)と言うように、キリストの素晴らしさ見てしまった以上、もはやかつての我がものは「塵あくた」にしか見えなくなってしまったということです。ここには信仰とは自己を相対化するものであるとの典型的な例をみるのではないでしょうか。