キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
エフェソの信徒への手紙4章16節(参照箇所同書4:11〜16)
教会では何事かをしないと信仰者としての責任を果たせないのではないかと考えがちです。ところが一般社会とちがって、教会の中では何をするかという能力についての評価はないのです。教会とは、人の「存在」が評価されるところです。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて・・・」とパウロは言います。そこに「存在」する部分である節々がキリストによって組み合わされて、キリストの体である教会へと成長していきます。なにかを「する」という能力は求められていないのです。そこに「いる」ということが、キリストによって他の「存在」と合わせられていくのです。
そこで初めて、「存在」の分に応じた働きが起るのです。その働きは愛です。教会で何をすればよいかと自らに問うならば、愛することだと、そこに「存在」する信仰者は言うでしょう。愛とは互いの存在、つまり「いること」を受け入れることです。「いること」には、「いる」形があります。言い換えれば、生きている形といってよいでしょう。生きている形はざまざまです。どのような形であれ、愛はゆるして受け入れます。そこに教会の成長が生じます。