神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマの信徒への手紙8章28節(参照箇所同書8章26〜28節)
耐え難い嘆きのとき、果てしない悲しみが続く間、神は一向に慰めをくださらないかのようであり、あたかも嘆きや悲しみは、永久に続くかのようです。そうなれば、もはや「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」(26節)と言いたくなるのもうなずけます。
人がそのような思いの中にいるとき、キリストにある者として何か考えることができるのは信仰者の特権ではないでしょうか。キリストにあるものは、常に神が望みとされることです。それ以外のものはキリストにあるはずがありません。
信仰によって、人が慰めを求めるとき、キリストは御自身のものをくださらないはずはありません。ルターは、そのことを「喜ばしい交換」と申しました。嘆きや悲しみへの慰めを求めるとき、キリストは御自身のものをくださる、これほど喜ばしいことはありません。それこそ「喜ばしい交換」であります。
「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とのパウロが言う言葉には、信仰があれば万事OKという単なる楽観主義でなく、キリストとの間に「喜ばしい交換」が起っていると信じる人こそ信仰による慰めの深さを知る人です。