罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。
エゼキエル書18章20節(参考箇所同書18章1〜24節)
捕囚の時代、「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」(2節)ということわざを引いて、このような苦しみは先祖の罪の報いを受けているのだという考えを持つ人たちが出てきたのです。これに対し、エゼキエルは罪を犯した者は死ぬのであり、主の掟を守り行った者は生きると主張しました。個人の責任を問う考えはエレミヤにも共通しています(エレミヤ31章30節)。また出エジプト記23章20節にも見ることができますから、この時代の新しい考えというわけではありません。イスラエルは共同体としての信仰と共に個人の信仰の大切さを忘れていないのです。
人は思いがけない不幸や災難に遭遇すると、だれかに責任を転嫁したくなります。身近なところに相手がいなければ、先祖は打って付けの相手です。怪しげな宗教が人の不幸を先祖のせいにして、供養と称し多額の金銭を要求するなどといったことは上手に先祖を利用しているわけです。
人が何を経験するにせよ、それをどのように受け止めるか、そのあり方は、そこに至る過程がどうであれ、その人個人の信仰において受け止めるのが成熟した信仰者の姿です。究極的には神に委ねる決断として表れるでしょう。