わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。
イザヤ書66章2節(参考箇所同書66章1〜17節)
バビロンからエルサレムに帰ったイスラエルは、神殿を建て、祭儀を立派に行うことが神を喜ばせると思ったのです。イザヤは、そのような考えに警鐘を鳴らし、天地の造り主であるお方は神殿をもって安息の場とはされないと言います(1〜2節)。
イザヤは神の顧みは、「苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」にあると言います。「顧みる」という言葉は、神が心に止めてくださるとの意味です。
苦しむ人、霊の砕かれた人、神の言葉におののく人は、一見したところ、神が喜んで顧みてくださるようには見えません。神が喜んでくださるのは、むしろ感謝している人、しっかりしている人、びくともしない信仰の持ち主ではあると考えがちです。
しかしそうではないのです。彼らには確かな信仰があるようにも見えません。むしろ苦しんでいるかのようです。びくともしない信仰があるとも思われません。むしろおののいているかのようです。にもかかわらず神は彼らを顧みてくださいます。なぜ?彼らは赤裸々な真実を神の前にさらしているからです。本当の姿を神の前にそのまま差し出しているからであります。神の顧みはそのようなところに注がれます。