8月5日 イザヤ書53章5節

彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎(とが)のためであった。
イザヤ書53章5節(参考箇所同書53章1〜12節)

どのようにも先の見えない苦しみに遭うとき、運命と諦めるのでしょうか,なにかの報いであると恨めしげにわが身をふり返るのでしょうか、神からの試練であると受け止めることができるほどの苦しみなら、まだ打つ手はあるかもしれません。どのようにしても解決の目処が立たず、絶望だけが駆け巡るとき、どうすればよいのでしょうか。

もしそのようなとき、代わって苦しみを負う存在があれば、これこそ究極の答えとなるでしょう。イザヤは、そのようなお方がメシアとしておいでになるのだと告げているのです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(4節)と彼は言います。病をいやすのではないのです。痛みを和らげるのでもないのです。病も痛みも、もはや消えることがないとき、これ以上の答えがあるでしょうか。

そのようなお方は、遂にはわたしたちが生きるためにご自身の死を提供してくださるお方です。イザヤの言葉は、そうまでしてわたしたちに答えをくださるお方がおいでになることを教えているのです。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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