主は羊飼い、わたしにはなにも欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。
詩編23編1〜2節(参考箇所詩編23編1〜6節)
羊飼いである主はわたしを青草を豊かに与え、命の水に導かれます。穏やかでなに不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景です。
しかしながら、ここに歌われた光景は、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかの確認の歌でもあることに気付きます。しかも生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いであるお方です。現実の羊飼いがどれほど過酷な職業であるかはヤコブの姿によく表れるところです(創世記31章38節以下)。主イエスも言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)。激しいまでの過酷なわざを伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、わたしたちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないでしょうか。
命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばなりません。だから詩編の作者は「死の蔭の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(4節)と歌うのです。