わたしはイスラエルを導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕から天幕へ、幕屋から幕屋へと移って来た。
歴代誌上17章5節(参考箇所同書17章1〜15節)
ダビデが王についてレバノン杉の立派な王宮に住むようになると主の契約の箱を天幕の中に置いたままにしていることが気になり始めました。彼は預言者ナタンに神殿の必要を訴えたのでした。しかし主なる神はナタンに、イスラエルをエジプトから導き出して以来、家に住んだことはないと言われます。
旧約の神は移動する神です。特定のところにおいでにならないのです。もし神が特定のところにおいでになるのであれば、人はそのところまで出向いて神と出合うことになりでしょう。そうなれば、人は自分の必要のときにだけ神のところに行き、必要がないときには神無しで生活を営むことになります。このことは考えてみれば、多くのわたしたちが知らないうちに過している信仰生活の中にひそかに忍び寄っている神との関係かもしれません。日曜日の礼拝を教会で過すときのわたしたちはどうなのでしょう。教会では神を意識し、日常に戻れば神とは遠くなることはないのでしょうか。
神は遠くなったり、近くなったりするお方ではありません。聖書の神は変らずに共にいますお方であるとは繰り返されたテーマです。そのテーマにふさわしく神は自在に所を変えて共にいてくださいます。