6月2日 サムエル記上17章47節

主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。
サムエル記上17章47節(参考箇所同書17章1〜18章58節)

旧約には血を血で洗うような戦いの場面が多く見られます。聖書はその点、人間の現実としてありのままに記し、美化することなく読む者をして自らの本性を直視させるものがあります。

サムエル記上17章に記された、羊飼いの少年ダビデがペリシテの勇士ゴリアテに勝利を収めた戦いは、よく知られた物語でありながら、人間の罪の現実を直視させるものがあります。

しかしながら、聖書は争い事を人間の本性だとして肯定しているのではないのです。引用の聖句は、戦いを挑むゴリアテにダビデが立ち向かったときの言葉です。ダビデは、自らを「僕は父の羊を飼う者です」(34節)と言い、サウルから与えられた武器をもって戦うことを断り、羊飼いの備えをもって戦うことをよしとします(38〜40節)。ここには羊飼いとはだれか、なにをもって働くのかとの意味が込められていることを知ります。主イエスが「羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章11節)との言葉を想起させます。争い事という人間の罪の中に神の救いという深いところにあるもう一つの現実を見ないなら、柔よく剛を制す、小が大を倒すという単なる戦いの論理読み取ることで終わってしまうでしょう。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

この記事もおすすめ