5月14日 申命記1章31節

 また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。
申命記1章31節(参考箇所同書1章19〜33節)

キリスト者が晩年に至り自叙伝を書くとき、わたしは如何にキリストを信じたかを書いたとしてもキリスト者の自叙伝にはならないと言われます。キリスト者の自叙伝は、わたしの人生に如何にキリストが働いてくださったかの記録でなければならないと。これはまことに至言です。

わたしは如何にキリストを信じたかを自叙伝として書くなら、きっと書きたいことを書き、書きたくないところは伏せるでしょう。しかしキリストがわたしの人生に働いてくださった記録となれば、とんでもないところに働いてくださったキリストの記録を付けねばなりません。ときには人に言えないほどの恥ずかしいところにキリストが働いてくださったこと、隠しておきたいところにキリストの働きがあることなど、赤裸々の記録が白日の下に置かれることになります。それこそキリストが背負ってくださらなければ、とても先へ歩を進めることができないほどの歩みの記録があることでしょう。

荒れ野の旅を記録した聖書は、それこそイスラエルの民の不信仰と恥に覆われています。まこと神が背負ってくださらなければ、その歩みは一歩も先へ進まなかった記録であります。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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