本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したためでもない。神の業がこの人に現れるためである。
ヨハネ9章3節(参考箇所同書9章1〜34節)
意味なくして人は生きることができないといいます。生きることに意味がなければ、これほど空しいことはありません。
弟子たちは、生まれつき目の見えない人を見て、その原因を探ろうとしました。「目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」(2節)。人はしばしば不孝めいたことに遭遇すると、どこに原因があるかと詮索する携行があります。原因を探ることは、過去にさかのぼることです。過去にさかのぼったからといって、それでどうにもなるものではありません。生きるということは、現在から将来に向かっての営みです。これからを生きるための意味付けがあってこそ、将来を見据えての生き方が生まれるでしょう。
イエスは言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したためでもない。神の業がこの人に現れるためである」。不幸と思われることが、実は神の業を表わすためであるとのイエスの言葉は、たとえ起こった事態が不都合と見えようと、そこには神の御心があることを教えるものです。これを知る者は、ゆるぐことなく、前に向かって生きることができます。