4月3日 ヨハネ9章3節

本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したためでもない。神の業がこの人に現れるためである。
ヨハネ9章3節(参考箇所同書9章1〜34節)

意味なくして人は生きることができないといいます。生きることに意味がなければ、これほど空しいことはありません。

弟子たちは、生まれつき目の見えない人を見て、その原因を探ろうとしました。「目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」(2節)。人はしばしば不孝めいたことに遭遇すると、どこに原因があるかと詮索する携行があります。原因を探ることは、過去にさかのぼることです。過去にさかのぼったからといって、それでどうにもなるものではありません。生きるということは、現在から将来に向かっての営みです。これからを生きるための意味付けがあってこそ、将来を見据えての生き方が生まれるでしょう。

イエスは言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したためでもない。神の業がこの人に現れるためである」。不幸と思われることが、実は神の業を表わすためであるとのイエスの言葉は、たとえ起こった事態が不都合と見えようと、そこには神の御心があることを教えるものです。これを知る者は、ゆるぐことなく、前に向かって生きることができます。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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