ところで祭りの度ごとにピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒の中に、バラバという男がいた。
マルコ15章6節(参考聖書箇所同書15章6-15節)
「十字架につけろ」との群衆の声は、暴徒として刑打たれ、本来なら死を宣告されるべき赦されるべき一人の囚人を主の命と引き換えに救うという結果をもたらしました。その名はバラバ。彼の身に起ったことは、イエスを赦すか、バラバを赦すかとの二者択一の選択の中で起ったことです。主イエスが死ぬことによってのみ、彼は命を得た、それこそイエスの十字架の死の贖いによる赦しを一身に受けたのでした。
バラバは赦されるふさわしい功績があるはずはなく、それどころか、赦されることはあり得ないのであり、信仰すら彼には無縁であります。ただ主が死んでくださったことにおいてのみ、赦しが与えられたのです。それ以外のなにものも彼を命へもたらすものはありません。
まことにこれは、救いの極致とでもいうべきことです。しかしながら、これはわたしたちの身に起っていることでもあります。どうしてわたしのような者が赦されて今日ここにいるのか、なんの功績もなく、ただ主イエスがわたしの命と引き換えに死んでくださったので生きることが赦されています。わたしもまた、一人のバラバであることをひしひしと感じない人はいないことでしょう。