「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。
マタイ11章19節(参考聖書箇所同書11章18〜19節)
イエスがだれであるか、という問いは、聖書の中では決して奇麗事を並べた答えで飾られてはいないことを教える言葉です。ナザレの村を中心に、ありもしない風聞を種にさまざまな噂が流れていたのでしょう。聖書は、この風聞を正直に記載しました。
一見、あたかもイエスの悪口としか受け取ることのできない、この記述に、わたしたちは改めて救い主は人間の中においでになったのだということを徹底した仕方で知らされているといえないでしょうか。大食漢、大酒飲み、徴税人、罪人、彼らこそ最も慰め、勇気や、希望を必要とする人たちではありませんか。救い主が、彼らと同じように見られるということは、救い主もまた後ろ指を差され、ひそひそ話の対象となり、仲間外れにされたことに他なりません。しかし主が彼らと同じになってくださるので、彼らはどこにいるかが分かるのであり、歩く道が明らかになります。
救い主は、わたしたちが最も惨めであるとき、自棄になっているとき、世間を恨んでいるとき、その姿そのものとなり、共にいてくださいます。救い主が共にいてくださるなら、そのお方が持っておいでになるものをくださらないはずはありません。