8月21日 エゼキエル書37章4〜5節

そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。・・・」
エゼキエル書37章4〜5節(参考箇所同書37章1〜14節)

前567年バビロン軍によるエルサレム陥落の知らせを聞いた捕囚の人々は、もはや生きて故郷に帰る望みを絶たれたと思ったのです。その時エゼキエルは枯れた骨の復活を通して死を予想している人々に希望を甦(よみがえ)らせたのでした。

ある一人の人の死を思い起します。この方はもはや癒(いや)されることはないと悟った、その時から聖書を読むようになられましたが、ある日「わたしはもはや癒されることはないと思います。ついては洗礼を受けたい。なぜかというと聖書には如何に死ぬかは書かれていない。聖書には如何に生きるかが書いてある。わたしは生きたいのでキリストを信じて死にたい」と言われるのです。病床にあって洗礼を執行したのはいうまでもありません。この方は今「わたしは復活であり、生命である」と刻まれた教会の墓の中に眠っておいでであります。復活は真剣に死を見つめる人にとっては、幻想ではありません。死が生命に変えられることを信じる人はまことに幸せです。同時にその人の死を見つめる人をも幸せにします。

死と再生は普遍的な人間の命題です。聖書は、これをキリストの死と復活を信じる信仰を通して体現するのです。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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