関野哲也さんの本『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた ─哲学、挫折博士を救う』(CCCメディアハウス、2023年)は、哲学のことを全く知らない人に向けて書かれたわかりやすい入門書ではあるのだけれど、この本そのものは哲学の営みそのものの根源に迫るような、とても美しい直観に従って書かれている。
『世界はきらめいていた』294ページ:
「絶望の中、療養のため一人寝ているとき、心も体も動かないながらも、私はふと浮かぶ哲学の問いを考えてみたり、何となく手を伸ばした哲学書をめくったりしてみました。すると、人間や世界について、知らないことが実に多いということに私は改めて気づきます。人間や世界についての不思議、つまり神秘がきらきらときらめいて私の目に映りました。」
関野さんはフランスで博士論文を書いたにもかかわらず、大学に就職することができずに鬱で苦しみ続けたという特異な道を歩んできた人である。その関野さんが鬱のせいで体も動かず横になっていた時、彼は自分自身を命のうちにつなぎとめるものを見た。彼は、世界が神秘できらきらときらめいているのを見たのである。
この本の中で、関野さんは自分自身の心の思いを大胆に吐露している。フランスで博士論文なんて書いたから、おかしなプライドが生まれてしまったのだ。シモーヌ・ヴェイユはあるべき生き方に向かうことのできない自分自身に絶望していて立派だったけれど、私の方はといえば、私のことを活躍させてくれないこの社会に対して絶望している。それにしても、こんなに苦しいのだったら、生きている意味なんてどこにもないのではないだろうか。人生とは果たして、自殺以上の何物かであるのか?
ところが、関野さんはそういう絶望を吐き出し尽くしてしまって、それで本を終わりにしようとは思わなかった。現代を生きている私たちは、多かれ少なかれ皆狂っているし(もっともこのことは、何も現代には限らないのかもしれない。パスカルは、人間が狂っているというのはかくも必然的なことなので、他人を病院の中に押し込めたくらいでは自分は正気であると安心できないのだと言っている)、若い頃から心を病んだり、「ひょっとしたら、私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか?」といったことを考えて憂鬱になったりしている。そうしたこと全ての代わりに、関野さんが私たちに伝えようとしているのはまさしく、「世界はきらめいている」という一点に他ならない。私たちが生きているこの世界は、存在することの、「ある」ことの神秘で満ちている。当たり前のものなど何一つない。私たちが生きている日常は、本当は魂を震わせずにはおかないほどの美しさに満たされているのだ。そのあふれんばかりの豊かさは、この世を生きている誰にも決して汲み尽くせないのである。
哲学の営みはこの神秘を言葉で指差し、それに触れようと試みる。重要なのは、関野さんがこのような営みを、「救い」という言葉と結びつけて考えているという点なのではないか。
『世界はきらめいていた』295ページ:
「『きれいだな』と思うと同時に、ひとたび不思議だと思うと、人間とはその不思議のなぜを知りたくなるのですね。私は、そうやって考え続けることによって、今まで生きてこられたように思います。その意味で、私にとって哲学とは『救い』なのです。」
「救うとは、本質のうちに取り戻すことである」と後年のハイデガーは語っていた。救われるとは単に、死んでしまうはずだったものが生きることができるようになるということだけを意味するのではないのだ。もちろん、それだけでも既にとても大きなことだけれど、救いとはそれにとどまることなく、さらに大きなことをも成し遂げてしまうような出来事なのである。救いは、物事の本質を輝きのうちにもたらし、それまで意味を見出せなかったものを、新たな意味の神秘によって満たす。意味がないように見えていたものが、意味というイデアと共にまぶしいほどに輝きはじめる。救いなるものはまさしく、世界をきらめかせずにはおかないのである。
このような「意味の取り戻し」の出来事にたどり着くために、哲学の営みは全身全霊で考え続けなければならない。『世界はきらめいていた』において、関野さんは実にさまざまな問いに取り組んでいる。私とは何なのだろう。「やらされている」という苦痛しか感じられないけれど、はたして働くことに意味なんてあるのだろうか。辛くて苦しくて、もう何も信じられなくなってしまった自分ではあるけれど、こんな自分にとってもまだ信じるということに意味はあるのだろうか、等々。この短い文章でも既に何度か用いた言葉ではあるが、関野さんの本を読んでみてわかるのは、このような探求が「意味」をめぐる探求にほかならないということである。まともが何なのかということすらもわからなくなってしまった自分に、生きることの「意味」をもう一度見つけることができるのだろうか。そして、その「意味」を見つけ出すことができたとしたら、それを誰か他の人と分かち合うことは可能なのだろうか。生きることそれ自体がもう一度、まばゆいほどまでにきらめくことがあるのだとしたら、その時こそ哲学は、「美しい」という言葉の本当の響きを取り戻すことになるのではあるまいか。
『世界はきらめいていた』は、関野さんのこのような「意味」をめぐる探求の実りともいえる本である。用いられている言葉そのものがとてもわかりやすく、いわゆる入門書の体裁をとってはいるけれど、伝えようとしているものの内実はとても深い。関野さんはこの本を去年、ほとんど他のことは何もせずに書いた。命そのものを振り絞るようにして書いたこの本の言葉が、哲学のことをこれから知ろうとしている多くの人のもとに届くことを願うばかりである。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]