福音主義者たちは、自分たちの性倫理が深く不人気であると思いがちだが、思想的指導者たちがキリスト教を文化的資産であるとますます宣言するにつれ、風向きが変わりつつあるのかもしれない。ランド・センター・フォー・カルチュラル・エンゲイジメントのディレクターであり、『Agent of Grace』『The Dignity Revolution』『In Defense of Christian Patriotism』などの著書があるダニエル・ダーリン氏が「クリスチャニティ・トゥディ」に寄稿した。
キリスト教の2000年の歴史を持つ性倫理は、現代の西洋では普通ではないし、しばらくの間そうではなかった。セックスは一人の男性と一人の女性の生涯の結婚という契約の範囲内に限定されるべきだという考え方は、性革命やLGBTQ運動によって再構築された文化に単にそぐわないというわけではない。今や多くの人が、私たち(クリスチャン)の倫理観は時代遅れどころか、もっとひどいものだと考えている。南部貧困法律センターによれば、それは憎悪に満ちたものであり、ヒューマン・ライツ・キャンペーンによれば「危険」であり、著名な倫理学者デビッド・ガッシーによれば「大きな害」の源である。
これらの新しい規範に対する福音主義者の反応は様々である。基本的な正統性の問題として、伝統的な信条を倍加する者もいる。公の場での対立を避けながら、静かに伝統的な信条を守り続ける者もいる。また、ある者は福音派や主流派(メインライン)キリスト教徒と一緒になって、LGBTQの関係や婚外交渉を肯定する神学的修正主義を提唱している。
その違いはあれど、三つの姿勢に共通しているのは、伝統的な性倫理は根強い人気がないということである。つまり、伝統的な性倫理は深く不人気であるということだ。せいぜい、それは困難だが必要な信仰心の問題であり、伝道や弟子訓練において克服すべき障害物であるか、もっと悪いことに、無教会化、改宗、福音拒絶の主な原因であるということだ。
しかし、聖書の結婚とセクシュアリティに関する見解が、教会外の少数ではあるが増えつつある人々に、バグではなく特徴として見られている可能性はないだろうか。
西洋はG・K・チェスタトンの船乗りのように、冒険の旅に出たものの、気がつけば自分の故郷の岸辺の光に魅了されている、といったら言い過ぎだろうか。しかし、セックスとロマンスの文化におけるこの10年の激動と疎外感が、キリスト教の常に奇妙な性倫理を新鮮に魅力的なものにしているというのは早計だと思う。
私たちはすでに、キリスト教の他の要素でこのパターンを見てきた。最も有名なのは、女性の権利活動家アヤーン・ヒルシ・アリが昨年末、無神論からキリスト教への改宗を発表し、世界に衝撃を与えたことだ(以前はイスラム教から無神論へ転向していた)。彼女がキリスト教を受け入れたのは、「大国の権威主義」、「世界的なイスラム主義の台頭」、「覚醒イデオロギーのウイルス的拡散」に対抗して西洋を団結させるための「唯一の信頼できる」選択肢として、「ユダヤ教・キリスト教の伝統の遺産を守りたい」という願望を見出したからだという。
キリスト教は彼女が守りたい権利と価値の源であり、多くの進歩主義者が私たちの信仰を抑圧的なものとみなすなか、彼女はそれを偉大な文化的財産とみなしている。この点では、彼女だけではない。新無神論者の思想家リチャード・ドーキンスはこの春、「文化的キリスト教」への熱意を表明した。また、無神論から仏教、そしてキリスト教へと移行した作家のポール・キングスノースも同様に、自身の哲学的な旅路について、現代の西洋人が最も拒絶しがちなキリスト教の要素のいくつかに価値を見出すようになったものの一例だと述べている。
「現代のすべての人々が教えられえいること:自由とは束縛がないことを意味する、と私は信じて育って」とキングスノースは書いている。しかし、キリスト教は「この自由はまったく自由ではなく、(キリストの)熱い思いに従順であることを教えてくれた:これが私の最初の30年の人生をすっきり説明している。本当の自由とは、自分の意志を捨て、神の意志に従うことだとわかった」
英国のジャーナリスト、ルイーズ・ペリーも同様に改宗を表明していないが、彼女はキリスト教の性倫理に反発しているのではなく、感銘を受けているようだ。彼女の挑発的な2022年の著書『The Case Against the Sexual Revolution(性革命に反対する事情)』は、同意のみに基づく性秩序のメリットに質問を投げかけ、より良い倫理を懇願している。「他の人をリアルな人と認める人は、本当の価値と尊厳を付与した。今こそ性の反革命の時なのだ」
彼女はキリスト教を受け入れてはいないが、ペリーは多くの福音主義者が重荷や負債とみなす倫理的な教えを憧憬的に見ている。以下は昨年、「First Things」に寄稿したものだ。
ローマ人が男性の貞操を非常に不健全なものとみなしたのに対し、キリスト教徒は貞操を重んじ、それを主張した。初期の改宗者は圧倒的に女性であったが、それはキリスト教の弱さの価値観が、初めて男性に性的不貞を要求できるようになった弱い性に明らかな利益をもたらしたからである。フェミニズムはキリスト教に反対しているのではない: フェミニズムはキリスト教の末裔なのだ。……
もし……キリスト教の時代を森の中の空き地として理解したらどうだろう?森とは異教のことであり、暗く、荒々しく、活力があり、威嚇的であるが、同時に魔術的でもある。2000年もの間、キリスト教徒は森を押し戻し、焼き払い、伐採し、剪定し、耕し、天まで見渡せる庭を作った。
ここ数十年で、異教の森が忍び寄り、その眺望を奪い去りつつあるとペリーは警告する。
もちろん、これは逸話集にすぎない。最近の世論調査では、同性婚への支持がわずかに減少し、セックスやジェンダー・アイデンティティについても同様にわずかな逆転が見られるものの、伝統的なキリスト教倫理観は依然として少数派の立場であることは明らかだ。しかし、ポジティブな文化的力としてのキリスト教に新たな関心を抱く思想家たちのこの傾向は注目に値するものであり、おそらく一般大衆にも波及する可能性がある。
さらに、福音主義者たちにとっての教訓がここにあるかもしれない。イエスに従うことの反文化的な側面について身構えるのではなく、キリスト教倫理の奇妙さそのものが、文化的混乱の藪から抜け出せない人々を招き入れる可能性があることを、私たちはあらためて知ることができるかもしれない。
これは、神学者N・T・ライトが2019年に「キリスト教がセックスとジェンダーを取り上げることを恥ずかしく思うか」と質問された際にとったアプローチである。「初代教会において、キリスト教の大きな魅力のひとつは、実は性の倫理でした。それは多かれ少なかれ何でもありの世界であり、女性や子どもが搾取され、奴隷がしばしば醜悪で恐ろしい方法で搾取される世界です」と彼はアトランティック誌に語った。「だから、多くの人たち、特に女性たちには、キリスト教的な貞操の理想が驚くほど新鮮に映ったのです」
ライトは単純ではなかった。インタビュアーが、「女性であることが恐ろしいことであった古代キリスト教の世界」では魅力的であった「制限された性的倫理」が、現代では同じ説得力を持たないかもしれないと反論すると、ライトは「絶え間ない困難」を認めた―しかし、クリスチャンの生き方が私たちのカルチャー(現代文化)においても魅力的であることを指摘することを譲らなかった。
私たちの性倫理は、イエスが信奉者たちに「人々があなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめることができるように、あなたがたの光を他の人々の前で輝かせなさい」(マタイによる福音書5章16節)と促したときに考えていたことの一部なのだろうか? 私たちはそのように考えることに慣れていない。しかし私たちは、霊は「思いのままに吹く」(ヨハネによる福音書3章8節)ことを忘れてはならない。
それは、キリスト教の文化的な実りやその世界観の一貫性を、改宗の奇跡そのものと混同するためではない。神学者カール・トゥルーマンが、キリスト教を「別の文化的キャンペーンのために道具化する」と正しく表現していることや、パウロの福音宣教に対して「ほとんど」説き伏せられたと答えたアグリッパ王の悲劇(使徒言行録26章28節)にも注意しなければならない。作家のアンドリュー・メンキスが、説き伏せられそうになった作家ジョーダン・ピーターソンを訴えたように、単なる規則では「魂の飢えを満たすことはできない」。
それでも、「主の律法を喜びとする者」(詩編1編1~2節)は幸いであり、教会外の人々が、意味を奪われた世界でキリスト教的性倫理の祝福を見始めたとしても、私たちはそれほど驚くべきではない。おそらく、かつての懐疑論者C・S・ルイスのように、彼らは「神の硬さは人の柔らかさよりも優しく、神の強制は私たちの解放である」ことに気づいているのだろう。
(翻訳協力=中山信之)