私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイ10:34)
日本人は「和をもって尊(とうと)しとなす」と言って、和を大事にしてきた。稲作国の日本は、氏神(うじがみ)を結合の中心として、村民が同一歩調をとり、和を乱す者、よそ者を排斥(はいせき)した。また「長いものには巻かれろ」とは、村落共同体で生きる昔の人々の知恵であった。家では、家長である夫や父に服従することで和を守り、家と違う信仰を持てば勘当(かんどう)であった。そして戦前、戦中、日本は天皇を国民統合の親とする国体を説き、これに背(そむ)く思想や信仰を持つ国民を弾圧した。この日本流の和は、異なる者を排斥し、その人権を奪う偽りの平和であった。このような偽りの平和が、今日も私たちの社会にないであろうか。
主イエスの言葉は、鋭い剣のように偽りの平和をえぐりだす。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない」(37節)と言って、家族との関係や人との関係よりも、ご自身との関係を優先することを求める。主は、家族や社会との関係を否定しているのではない。神との正しい関係を確立することなしに、家庭においても社会においても真の平和は実現しない。それゆえに主は、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と言うのである。私たちは主イエスによって神との正しい関係に入れられ、神のいつくしみと正義のうちに生きる時、理不尽な束縛や圧迫から自由にされた自立した人間とされ、人との正しい関係を築くことができるようになる。「主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように」(詩編85:9)。
ご愛読、ありがとうございました。2月からはまた「今日の聖句」が始まります。