天皇が伝統的に即位後に行ってきた「大嘗祭(だいじょうさい)」。その中心的な儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が今日14日の午後6時半から翌日の夜明け前まで行われる。
儀式では、「斎田(さいでん)」(栃木県高根沢町、京都府南丹市)で収穫された米などを天照大神(あまてらすおおみかみ)などに供えるとともに自らも食し、国と国民の安寧や五穀豊穣などを祈るとされる。
その大嘗祭を前に、日本キリスト教協議会(NCC)の金性済(キム・ソンジェ)総幹事(在日大韓基督教会牧師)と日本福音同盟(JEA)社会委員の小岩井信氏(日本同盟基督教団・子母口キリスト教会牧師)、日本カトリック正義と平和協議会の太田勝神父(イエスの福音の小さい兄弟会司祭)らが12日、「違憲の即位儀礼に抗議 署名提出記者会見」を東京で開いた。
神道の儀式である大嘗祭を国事行為・公的行為として行うことは、憲法にある政教分離規定に違反するとして、首相あての署名(約6200筆)を会見前、内閣官房に提出したという。特に大嘗祭には、天皇を神格化する宗教的行為が含まれているため、政府はこの即位儀式に関与せず、公金も支出しないよう求めた。
憲法20条には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」、89条には「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と明記されている。
ただし、憲法第1章(1~8条)には天皇について規定されており、2条には「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とあるため、神道の祭祀を司る天皇を憲法が認めているとして、これを政教分離の例外とする見方もある。
ところで、日本においてキリスト教は国から激しい迫害を受け続けてきた。戦国時代、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に伝えてから半世紀の間に日本人口の数%まで信徒が増えたにもかかわらず、天下を取った豊臣秀吉や260年余に及ぶ江戸幕府、明治新政府によって棄教を迫られ、拷問を受け続けた長い歴史が厳然としてある。
また明治に入り、欧米諸国と肩を並べるために神道が国家神道となり、天皇は日本の「大元帥」であるとともに、神聖不可侵な「現人神(あらひとがみ)」として国民に強制されるようになった。戦時中は、「天皇は神ではなく偶像であり、ただひとりの神のみを礼拝する」と当然の信仰告白をするクリスチャンが捕まり、獄死する者もあったほど弾圧されたのだ。
戦後、国家神道が廃止され、昭和天皇も人間宣言によって自らの神格化を否定して「象徴」となったが、引き続き国が天皇を政治利用してきた事実がある。
そのため日本のキリスト教会では、一般の人々に比べて政教分離について問題意識は高い。また、戦前の天皇主権体制への回帰や天皇制美化などを危惧する声もある。神社で七五三を祝い、教会で結婚式を挙げ、仏教式の葬儀をしても何の心のとがめもない、人格的な神に対する誠実さへの理解のない日本では、今もクリスチャンは偏見で見られることが多く、日本人口の1%以下。「慶事に水を差す」、「反日」と誤解されるゆえんだ。
一方、米国では、合衆国憲法修正第1条で次のように規定されている。「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行うことを禁止する法律……を制定してはならない」。にもかかわらず、米国大統領は就任式という公共の場でキリスト教の聖書に手を置いて宣誓するが、神の前で人間が誓うことと、自らを神とした重大な歴史を持つ天皇がする宗教行為とでは、その意味あいは当然異なってくる。
昨年11月30日の誕生日の前に秋篠宮さまが大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」と述べ、通常の宮中祭祀にも使われる皇室の私的費用「内廷会計」で行うべきと発言した。国も、マイノリティーではあるがクリスチャンの国民感情を考えて、見直す見識を持つべきではないだろうか。