辛い時を思い出せば、神様は背中で語っている【聖書からよもやま話445】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 出エジプト記の33章です。よろしくどうぞ。

 

出エジプト記 33章21〜23節

また、主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様の恵みを受け取る機会は多いものですが、時としてそれを受け取ったその場ではそれに気づかず、後になって「あぁ、あの時のあれは神様の恵みだったんだ」と気づくことがあります。むしろそういうことの方が多いかもしれません。本当に切羽詰まったピンチのときには、そこに神様の力が与えられてその窮地から脱したとしても、それを神様の力だと認識し、感謝する余裕はないものかもしれません。簡単に言えば「神様の恵みは後からわかることも多い」ということです。

そんなとき、神様はあえて僕たちの目をふさいで、あとから気づくようにしているかもしれません。必ずしも僕たちが不注意であるからそれに気づかないのでもないんです。それは今日の箇所で神様がモーセに言っている通りです。「わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。」と。そして、その栄光の業が完了した後になって「あなたはわたしのうしろを見る」というわけです。

image

UnsplashReinhart Julianが撮影した写真

僕も思い返してみれば、そんな恵みをたくさん受けています。そのときには「神様は僕を見放したのだろうか」と思えるようなときにでも、後から思い返せば「ああ、あのときに神様は働いてくださっていたんだ」と気づくことが多々あります。特に「あの時は本当にキツかったな、辛かったな」と思えるようなときのことは思い出すと、ほぼ必ずそこに神様の働きがあったように思います。その場ではまったく気付いていなかったりするのですけれど。

皆さんもよろしければ、過去の辛かったときのことを思い返してみてください。そこに神様の後ろ姿をみることができるかもしれません。よく「幸運の女神は前髪しかない」なんて言いますけれど、本当の神様は後ろ姿で語りかけるものなのかもしれません。「背中で語る神様」です。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

【メールマガジン始めました】
クリプレのメールマガジンが始まりました。日々、クリプレの最新記事を皆様にお届けいたします。無料でご利用いただけますのでよろしければこちらのリンクからご登録くださいませ。

【おねがい】
クリプレは皆様の献金により支えられています。皆様から月に300円の献金をいただければ、私たちはこの活動を守り、さらに大きく発展させてゆくことができます。日本の福音宣教のさらなる拡大のため、こちらのリンクからどうか皆様のご協力をお願いいたします。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

この記事もおすすめ