あるルター派の牧師が説教で言っていた。宗教改革は偉大な修道者が起こした大きなムーブメントではない。一人のキリスト者が真剣に神に向き合う時に与えられた大きな神の力なんだ。
「プロテスタントが誕生した」「聖書をドイツ語に翻訳した」――ルターの成し遂げたことは計り知れない。しかし、ルター自身何か派手なことをしようとは一度も考えていなかった。ただ彼は神と向き合い、自分には何ができるか問い続けた。罪も、弱さも、欠けもあった。だからからこそ神は大きな力を与えた。宗教改革が僕たちに教えるのは、誰しもが平凡な人間であり、誰しもが神に用いられるということだ。
ルター派の牧師であったボンヘッファーは1932年から38年の6年間の牧師生活で、宗教改革記念日に二度、同じ聖書箇所から説教と黙想を書き起こしている。ヨハネの黙示録第二章がそれで、「初めの愛」がともに強調されている(本稿では1932年11月6日の説教を〈α〉、1936年10月25日の黙想を〈β〉と表記している)。
けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(ヨハネの黙示録2章4節=新改訳2017)
この世界は日々進化していき、人間も知識や経験がたくましくなっている。それ自体を聖書が否定することはない。ただ一点、「初めの愛」から離れていることだけは激しく責め立てる。
あなたは、かつては、神を愛していた。あなたは、かつては、神と共に努力したいと考えていた。〈α〉
プロテスタントは「抗議する(protest)」に由来する。しかしボンヘッファーにとってのプロテスタンティズムとは、まさに「神」が教会と人々に抗議をするという意味であった。
キリスト教の知識を身につけ、社会を観察する力を身につけ、信仰者はたくましく成長していく。でも、それと同時にキリストへの信頼や愛というものはどんどんと希薄になっていくのかもしれない。無理はない。知れば知るほど、この世界に神の言葉なんぞ通用しないように思えるし、大人になると「愛」という言葉もどこか恥ずかしくなり、愛することのできない自分の姿にも気づいてくる。
だが神は人間の高度な知能や卓越した思弁ではなく、徹底した弱さや欠けの中にいる。ありのままの不器用な人間そのものを用いられる。ルターという人がまさにそうであった。キリスト教が文化や社会の基盤となっていた時代、カトリック教会があらゆる権威を握っていた時代、彼は無数にいる神学教師の一人でしかなかった。しかし、否、だからこそ、神は彼を用いた。
ルターもまた、自分がなにか優れた人間であるとは考えておらず、むしろ劣等感の塊であった。弁護士になるよう期待されていた家族の思いに反対し修道院に入会、しかし司祭になったものの自分の過去の傷や今抱えている罪から自暴自棄、深い抑うつ状態になることもしばしばあった。しかし、否、だからこそ彼は神だけを頼らざるを得なかった。
実は過去に宗教改革の初穂となる働きをした人々がいた。ジョン・ウィクリフやヤン・フスといった神学者たちだ。しかし、ウィクリフは説教中に襲撃に遭うなど激動の人生を歩み、最後は礼拝中に脳卒中を発症し死去、フスはカトリック教会から破門されたのち杭にかけられ火あぶりの刑に処された。誰がどう見ても、この世界を変えることなんて不可能だと思っていた。
人間は〝過去の経験〟から〝現在を認識〟し〝未来を予測〟する。ルターもまた彼らの働きや自分の姿を見て、宗教改革なんぞ大きな未来の働きを想像していなかった。
しかし、ここで神が僕たちに抗議する。「あなたたちがわたしを信じた時、あなたは常にわたしを信じ、愛し、無謀と思えることでも一歩踏み出していたのではないか?」。ボンヘッファーも激しく叫ぶ。
「あなたはどこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めなさい」。ルターを宗教改革へと駆りたてたのは、まさにこの叫び声に他ならない。あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めなさい!〈α〉
「悔い改め」を意味するギリシャ語「メタノイア」は「向きを変える」を意味する。それはキリストを見つめ直して立ち返ることに他ならない。
その初めはむしろイエス・キリスト御自身であるが、それを思い起こせ。〈β〉
「立ち返る」とはまさに「初めの場所に今日もキリストは立ち続けている」ということだ。僕たちがいくらキリストから離れようが、キリストは僕たちと出会ったあの日の愛のまま、今日もあなたとともにこの世界と生き抜き、あなたにしか出来ない働きがあると語り続ける。
だから「初めの愛に」と聖書は言う。社会は目まぐるしく変化していくかもしれない、環境があなたを攻撃してくるかもしれない。しかしあなたは疑い、変化し、流されてはいけない。キリストこそ、まさに初めの愛のままそこにいる。この神的事実こそ「改革の基礎」〈α〉であるとボンヘッファー語る。
記録によると、1932年の説教の際に当時のドイツ大統領ヒンデンブルクも出席していたという。ナチスの躍進と戦争の火種が拡大しつつある時代、ボンヘッファーは何を思って語ったのだろうか。神の愛なんぞこの世界の何も役に立たないと嘲笑されそうな時代、彼は何を思って講壇に上がったのだろうか。
変わりゆく時代に、変わらないキリストだけを見つめる勇気が与えられるように。そしてあなたの弱さや欠けの中から働きかける神の愛を信じて。ともに宗教改革を祝おう。
引用
・D,ボンヘッファー、大崎節郎・奥田知志・畑祐喜訳『ボンヘッファー説教全集2(1931年―1935年)』(新教出版社、2004年)
・同上、浅見一羊・大崎節郎・佐藤司郎・生原優・畑祐喜訳『ボンヘッファー説教全集3(1935年―1944年)』(新教出版社、2004年)
参照
・江口再起『ルターの脱構築:宗教改革500年とポスト近代』(リトン、2017年)
・T・G・タッパート、内海望訳『ルターの慰めと励ましの手紙』(リトン、2006年)
・藤代泰三『キリスト教史』(講談社、2017年)
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。