【哲学名言】断片から見た世界 『徒然草』 吉田兼好の言葉

「古典作品は、なにゆえに古典作品であるのか?」 ー『徒然草』第50段から考える

古典作品と呼ばれるもののうちには、「なぜ、こんな話が古典として残っているのか?」と思わずにはいられないようなものも、決して少なくありません……が、実はそういう時にこそ、「古典はなにゆえに古典なのか?」という問いの答えを見出すための、非常によい機会がやって来ていると言えるのではないか。

「応長のころ、伊勢国より、女の鬼になりたるを率て上りたりといういふ事ありて……。」

このような書き出しから始まる『徒然草』の第50段を書いたのは、わが国屈指のモラリストたる、吉田兼好その人にほかなりません。今回の記事では、この段で語られている奇妙な出来事の一部始終を取り上げたのちに、上の問いについて考えてみることにしましょう。

「鬼が来た!」:兼好が記録として書き残した、鬼騒動のてんまつ

兼好によれば、今から700年ほど前の1311〜12年ごろの一時、京都の街は、「鬼が京都にやって来ている!」という噂で大盛り上がりの様相を見せていました。なぜそんな話が広まってしまったのかはわかりませんが、さる筋からの情報によると、伊勢の国から本物の鬼を連れてやって来た一行が滞在中とのことで、都中の人々が、「鬼が来た!」と言って騒いでいたのです。

兼好が語るところによると、渦中の三週間ほどの間は身分の高い人から低い人、男から女、おじいちゃんやおばあちゃんに至るまで、みな揃って「鬼だYO!鬼だYO!」をひたすら連呼し、寝ても覚めてもその話しかしていなかったそうです。ある日などは、「一条室町にいま、鬼が来てるんだってさ!」という噂が流れ、そこまで見に行こうにも、鬼見物の人々で街はごった返しており、ほとんど人がまともに通行することすらできません。しまいには、人混みでフラストレーションがたまった血気さかんな男たちの間で路上のケンカさえも発生し(「こいつぁ楽しくなってきたぜ、うおお、やっちまえ!」「ストリートファイトなう」「疲れちゃったし、お団子でも食べながら観戦します♫」)、その日の京都の街で巻き起こっていたのはまさしく純然たる混沌以外の何物でもなかったと、兼好は書き記しています。

結局、実際に鬼を見た人は一人もいないまま騒ぎは少しずつ収まってゆき、噂はだんだん忘れられてゆきました。この時のことは『徒然草』の第50段以外のどんな本にも記録として残されていないので、もしも兼好が興味を持ってこの話を書きつけておかなかったとしたら、この話も歴史の膨大な広がりのうちに埋もれてしまっていたことでしょう。700年前の人々も今の時代のわれわれとそう変わらなかったのだなあと、妙に印象深く記憶に残るエピソードであるといえます。

一つの疑問:「何がこの話を、語り継がれてゆくべき古典作品たらしめているのか?」

本題に入ります。この『徒然草』第50段のエピソードは全国の高校生が学ぶべき文章として、教科書に載っていることもあります。『徒然草』を、この場合でいうならば第50段の「鬼が来た!」のエピソードを語り継いでゆくべき古典作品たらしめているものとは一体、何なのでしょうか。

ここで私たちは、ある作品がまさしく「古典作品」として認定されてゆく上で必ず関わってくる一大鉄則を思い出してみる必要があります。それはつまり、「古典として残る作品は何よりも、人間の真実を描きとっているのでなければならない」というものです。今回取り上げている『徒然草』第50段について言うならば、このエピソードは「人間の言葉が持っている、とてつもなく奇妙な力」を、具体的な事例を通して、この上なく見事に描きとったものであると言うことができるのではないか。

『徒然草』の他の段を読んでいると、吉田兼好という人は、語られた言葉が人間存在に及ぼす影響力について、並々ならぬ興味を寄せていたことがわかります。ほめる言葉、けなす言葉、本当の言葉、嘘の言葉……この第50段においては、「都に鬼が来ている!」という言葉がいつの間にかひとり歩きして、ついには流言飛語として人心を惑わせるにいたり、京都の街中を上を下への大騒ぎに巻き込んでしまったのでした。

異形の鬼が興味深いのではない。実際には存在しない鬼をめぐって、まるで本当に鬼が存在でもするかのような大混乱を作り出すことができてしまう人間存在こそが、本当に興味深いのである。言葉が突然に暴走をはじめて、爆発的な感染力とともに都のあらゆる人々を動かすにまで至ったその瞬間を捉えたことによって、『徒然草』第50段は、後世にまで語り継がれてゆくべき古典作品となりました。「鬼が来た!」のうちには、時と場合によってはあるのかないのかも分からない言葉の影によって踊らされてしまいかねない人間存在の、その永遠の姿が映し出されていると言えるのかもしれません。

おわりに

かくして、この第50段は『徒然草』でいうと「嘘の言葉が持っている、奇妙な力」を取り扱った一連の文章群に属しているといえそうですが、人間、たまには何も考えずに「鬼が来た!」でひたすら盛り上がるというのも、それほど悪くないような気もしなくもありません。人間を突き放すでもなく、さりとて手放しに肯定するでもなく、共感をもって静かに知恵のまなざしで見つめ続けている、この辺りの暖かさと冷静さのバランスの取り方の妙が、『徒然草』をまさしく一箇の古典作品たらしめているといえます。

 

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