「○○放題」が失われる原因【聖書からよもやま話385】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、申命記の23章です。よろしくどうぞ。

 

申命記 23章24〜25節

隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ここにはイスラエル民族に定められた様々な決まりが書いてありますが、その中に「隣人のぶどう畑に入って勝手に食べてよい」とか「隣人の麦畑で穂を摘んでもよい」なんてかいてあるのは少し驚きます。今の日本で同じことをしたら窃盗罪で逮捕されるでしょう。隣の家の庭に入って、勝手にタケノコを掘るのだって怒られます。

しかしこれは一種の社会保障として用意されていた律法です。貧しい人が飢えて死なないように、その場で自分の食べる分だけは隣人のぶどう畑や麦畑からとってもいいよ、という規定なんです。ミレーの『落穂拾い』という有名な絵画がありますが、これは聖書のルツ記がモデルになっているとされています。今日の申命記からはかなり後の時代のことになりますが、エステルの時代は収穫の時に地面に落ちた穂は「貧しい人のためのもの」とされていて、落とした本人はそれを拾ってはならず、貧しい人がそれを拾って食べることになっていました。こんな風に、聖書の時代でも現代の生活保護にあたるような、貧しい人の生命や生活を保護するような規定がいろいろとあったんです。

しかし一方で、今も昔も、人から小さな親切を受けると際限なくそれを欲しがってしまう人もいます。自分の食べるだけのぶどうを摘むことを許されているのに、必要以上に摘んで、あまった分を市場で売ってお金にしようとしたりする人も、聖書の時代からいたわけです。こういう人、現代でもいますよね。デパートの試食コーナーで買いもしないのにあちこち回って、それだけでお腹いっぱいになろうとする人とか、食べ放題のレストランにタッパーを持ち込んで、余計に持ち帰ろうとする人とか(最近ではずいぶん少なくなったとも聞きますし、そう信じたいですが)。

また、食事に限らず、小さな要求が満たされると、そこから「あれもこれも、もっと」と要求をエスカレートさせる人もいます。「人もいます」というか、むしろ人間ってそういう性質を持っているのかもしれません。小さな要求を最初に飲ませて、そこから少しずつ要求のハードルを上げ、最終的には大きな要求をも通す交渉術をは「フット・イン・ザ・ドア」と呼ばれ、交渉テクニックの基本の一つとされています。セールスマンさんがよくやる話術から名付けられたものですが、まずは「ドアを開けてください。」という小さな要求を通し、ドアが開いたら「5分だけ話を聞いて」「商品を手に取ってみてください」「無料サンプルをあげるのでモニターになってください」「一回だけ購入してください」「定期購入してください」と少しずつ要求を上げて、最終的に自分の要求をすべて通すというやり方です。これはいわゆるカルト教団さんも勧誘の手口としてよくやる技ですから、彼らに対しては「小さな要求」にもしっかり警戒しなくてはなりません。

本当はそんな警戒なんてせず、誰にだって「小さな親切」くらい気持ちよくしてあげたい。しかし一部の厚かましい人たちのせいで、その「小さな親切」さえ、しにくい世の中になってしまうんです。
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子どもの頃、住んでいたマンションの大家さんの庭には立派な柿の木がありました。大家さんは僕に「いつでも勝手に取って食べて良いからね」と言ってくれていました。もちろんそれは、おやつとして一つ食べる、程度のことを想定して言ってくれている親切であって、「勝手に取っていいと言われたから」と、何十個もとってそれを売ったりしたら怒られますし、「二度と勝手に柿をとるな!」と言われてしまったことでしょう。際限のない欲望や要求は、最終的にはもともと満たされていたはずの小さな充足をも失わせてしまうんです。

とある蕎麦屋さんでは、つゆに入れるためにうずらの卵が使い放題でした。もちろんほとんどのお客さんは一つか二つ、常識の範囲でそれを手に取り、つゆに入れておいしく食べていたのですが、中には10個も20個も割って、それで卵かけごはんを作って食べるような厚かましい客がいました。それで店は困って、みんなが気に入っていたその「うずら卵使い放題」のサービスは中止されてしまいました。

与えられたもの以上のものを求めれば、もともと与えられていたものさえも奪われてしまうんです。自分が今与えられている幸せに満足せず、もっともっとと求めれば、今の幸せさえ奪われてしまうかもしれません。確かに神様はクリスチャンに「求めれば与えられる」と言ってくださっていますが、それは「うずらの卵使い放題」みたいなものです。なんでもかんでも「求めれば与えてくれるんでしょ?」と際限なく欲しがれば、今持っているものも奪われてしまうかもしれません。「○○放題」にはそういう責任が常についてまわります。お互いの信頼によって成り立っているものですから、信頼を裏切るようなことをすれば、なにもかも成立しなくなってしまうんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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