料理を作ったら食べる。生まれたら死ぬ。【聖書からよもやま話375】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ヘブル人への手紙の第9章です。よろしくどうぞ。

ヘブル人への手紙 9章27節

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

残酷な宣告ではありますけれど、人間は生まれた以上、必ず死にます。僕もあなたも他の誰かも、誰一人まちがいなくいつか死にます。どれほど体を大事にしようとも、どれほど危険を避けようとも、必ず一度死にます。反対にどれほど体を粗末にしようとも、危険に身を晒し続けようとも、一度しか死にません。

これは当たり前のことではあるのですけれど、しかしこのことへの意識を、人間はついつい忘れてしまいます。あえて忘れたいのかもしれません。そしてまるで自分は死とはまったく関係のない者のように生きてしまったりします。まるで、何らかの「死の要因」さえなければ永遠に生きる者であるかのように振る舞ってしまったりします。「命を大切に」することはもちろん大切なことです。しかしどれほど大切にしても人は必ず一度、命を失うことは変わりませんし、一度しか失わないことも変わりません。

本当に残酷な言い方になりますけれど、たとえ大病が治ったり、事故から生還したりして「助かった!」と思っても、実は僕たちは決して助かっていないんです。たとえ「助かった」としても、死は厳然として、そしていつやってくるか分からない状態のまま、そこにあり続けるんです。死は延期されただけです。
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日本人は特に、この「死への意識」が希薄な国民だと言われています。「死」を避けたがる文化を持っています。「4」という数字を避けるのも「死」を避けるためですし、死ぬことやお葬式の話題も「縁起でもない」と避けます。お葬式の後に「お清め」をするのは、死を「清めによって避けるべきもの」と捉えているからです。僕は仕事柄、遺言や相続に関わることも多いのですが、この話題についても「縁起でもない」と避ける方はとても多いです。遺言書を書くことをお勧めすると「私に死ねと言うのか!」と怒る方も少なくありません。

しかし、「生」と「死」は表裏一体のワンセットですから、本当に「生」を考えるのであれば「死」を見つめることは避けられません。「生きる」ことばかり考えていても、本当に「生きる」ことには至らないんです。料理を作ったら、食べます。「作る」と「食べる」はワンセットです。「食べる」ことを考えずに作る料理はありません。「生」と「死」もこれと同じようなものです。死ぬことを考えずに生きるというのは、食べることを考えずに料理を作るようなものです。

試験勉強は試験のためにするものです。試験を想定せずに試験勉強をしても、なかなか効率は上がりません。そもそも勉強をするモチベーションもあがりません。「死」があるからこそ、人は生きるんです。よりよく生きるんです。

もちろん「どうせ一度死ぬんだからいつ死んでも、今死んでもいいじゃないか」というのは違います。人は神様から与えられた分だけの時間は、生きなければいけません。生も死も、それについての権限を持っているのは神様であって、人間自身ではありません。自分の意思で「よし、俺は生まれることに決めたぞ!」と決意してこの世に生まれた人はいません。「生まれる」ということは誰にとっても自分ではなく、神様の権限によってなされたものです。ですからそれとワンセットである「死」も同じです。それを自分の管理下に置くべきではありません。

生まれるのも死ぬのも神様次第。だからこそ、その間の人生の期間を、ひいては「今」を生きることが輝くのかと思います。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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