僕が教会で「塩対応」をする理由【聖書からよもやま話330】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、コリント人への手紙第一の3章です。よろしくどうぞ。

コリント人への手紙第一 3章5節

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれに与えられたとおりのことをしたのです。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

クリスチャンの間では時々「あの牧師はすごい!」「あのメッセンジャーは素晴らしい!」というような話になります。それだけなら何の問題もありません。人を褒めているだけですから。しかし時としてここから「この牧師こそがすごい!」「この人のメッセージこそ神様の福音だ!」と話が少々熱狂を帯びてきたりします。こうなると明らかに問題です。

「私はクリスチャンです」と名乗る方でも、話をよく聞くと牧師やメッセンジャーに心酔しているだけで、肝心のイエス様のことは実はほとんど見えていない、という方がいます。そういう方はその牧師や伝道師がいなくなると、何事もなかったかのように教会から離れ、聖書のこともイエス様のことも忘れた生活に戻ってしまいます。その方はその牧師や伝道師を信じていただけで、イエス様を信じたわけではないんです。その牧師や伝道師の弟子になっただけで、イエス様の弟子になったわけではないんです。

こんなことを書くともしかしたら「調子に乗っている」とか「いい気になっている」なんて思われて嫌われるかもしれませんがそれを恐れずにあえて書きます。僕も僭越ながら数冊の本を出させていただいていますから、読者の方が「MAROさんに会いにきました」と教会を訪れてくださることがあります。それはとてもありがたいことですし、僕個人としては嬉しい気持ちにもなるのですが、一方で正直なところ残念と言うか申し訳ないと言うかそんな気持ちも生じます。と、いうのも僕は、教会にはイエス様に会いにきて欲しいのであって、僕に会いにきて欲しくはないからです。

もちろん、僕に会いにきてくださったことをきっかけにその方がイエス様に会えるなら、こんなに嬉しいことはありませんけれど、「今日はMAROさんと会えてよかったです」と、それだけで帰られてしまうと、「神様ごめんなさい・・・」って気持ちになるんです。ですから申し訳ないのですが僕は時々そういう方に割とそっけない対応、いわゆる「塩対応」をすることがあります。それは、その方のその日のメインイベントに自分がなりたくないからです。その方のその日のメインイベントはイエス様であって欲しいからです。教会のメインは常にあくまでイエス様でなければいけないからです。

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UnsplashEmmy Smithが撮影した写真

ですから他の牧師さんやメッセンジャーの方であっても、「その人に会いに行く」という人が増えてしまうことには
気をつけていなければいけないなと思います。人を傲慢に陥れる悪魔の落とし穴は必ずそこにありますし、それはとても大きく深いものですから。悪魔がいつ僕の耳元で「ほら、今日もお前に会いにきてくれた人がいるぞ。イエスじゃなくてお前にだ。お前はすごいんだ」とささやくかわかりません。

今日の手紙でパウロはアポロと共に自分自身のことも指して、あくまで奉仕者であって神様に与えられたことをしただけだ、と強調しています。自分が何者かであるわけではなく、あくまで働いているのは神様なのであると。パウロのこの姿勢は常に意識しておかなくてはいけないと、改めて思わされました。

信仰とは、人を信じるのではなく、神を信じることです。どんなに立派なメッセージをする人でも、その先に神様がいるのかどうか、そこが大切です。反対にメッセージをする立場なら、必ずイエス様に自分の後ろに立っていただくこと、イエス様なしに語ったり書いたりしないことが大切なのかと思います。人を信じる信仰は、あまりにもろく崩れ去ります。だからこそ悪魔は、神様ではなく人を信じさせようと巧みに働きかけるんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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