テレビを楽しめないのはテレビのサイズのせいではない【聖書からよもやま話321】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、伝道者の書の6章です。よろしくどうぞ。

 

伝道者の書 6章3節

もし人が百人の子どもを持ち、
多くの年月を生き、
彼の年が多くなっても、
彼が良き物に満足することなく、
墓にも葬られなかったなら、
私は言う。彼よりも死産の子の方がましだと。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

「死産の子の方がましだ」というのはちょっと過激な表現ですし、現代の感覚ではあまり良い表現だとは言えないかもしれませんが、ここでソロモンが言いたいことは端的に言えば「与えられたもので満足や幸せを得られないのであれば、それは生まれていないのと同じかそれ以下だ」ということだと思います。

ソロモンは誰よりも賢い、偉大な王としてこの世のあらゆる栄華や豊かさを体験しました。しかしおそらくソロモンは、それで幸せを感じることができなかったのかと思います。どれほど見事な宮殿に住んでも、どれほど豪勢な食事をしても、どれほど美しい服を着ても、ありとあらゆる欲望を満たしてみても、それでもなお欲望は留まるところをしらず、自分はいつまでも幸せにもなれなかったと、ソロモンは告白し、また警告しています。

古代中国の老子は「足るを知れ」と教えています。それが多くても少なくても、立派でもみすぼらしくても関係なく、与えられた物や環境に満足するように心がけることが、人間の幸せになる道であるということです。反対に、立派なものや高価なものを追い求めても、いつまで経っても欲望は満たされることがなく、いつまで経っても幸せにはなれないということです。人の欲望には果てがなく、満たしても満たしてもなおさら欲しくなるばかり。与えられたものからしっかりと幸せを受け取り、欲しがることをやめることでしか、幸せには至らないと、老子は教えています。そしてソロモンもまた、同じようなことを言っています。
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僕の家にあるテレビは32インチのものですが、これを買った時は「大きいなぁ、嬉しいなぁ」と思ったものです。しかし今ではすっかりそれに慣れてしまって「もっと大きな40インチくらいのテレビを買おうかなぁ」なんて思ってしまっています。でもきっとそれを買っても近いうちに「今度は55インチを買おうかなぁ」なんて思うことでしょう。

32インチのテレビで楽しめなければ、それが50インチになろうと60インチになろうと、きっと楽しむことはできません。テレビから幸せを得られないのはテレビの大きさのせいではなく、僕の心のせいです。しかし人間というのはつい、自分が幸せを得られない理由を自分の心ではなく、外側の物質に求めてしまうものです。テレビを楽しむ心がなければ、50インチや100インチやそれ以上の大きさのテレビを買ったところで何も楽しめません。それなら最初からテレビを買わない方がマシです。ソロモンの言っていることはそういうことかと思います。人生を楽しむ心がなければ、富や名誉でどれほど人生をきらびやかにしても、楽しむことはできません。

外側を追い求めても、幸せにはなりません。幸せになるには何よりもまず、内側の心を整える必要があります。幸せは「ここではないどこか」にはなく、「今、ここに」しかないものです。足下の小さな幸せを感じられないなら、「ここではないどこか」の大きな幸せも感じることはできないでしょう。そもそも「大きな幸せ」なんてどこにもなく、幸せとは「小さな幸せの集合体」でしかないのかと思います。

・・・とか言いつつ、やっぱりもう少し大きめのテレビが欲しいです神様。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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