外側に声をあげるより先にやるべきこと【聖書からよもやま話313】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、コリント人への手紙第一の5章です。よろしくどうぞ。

コリント人への手紙 第一 5章12節

外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

コリントの教会には「淫らな行い」をする人たちがいたようで、それに対してパウロは怒っています。「そんなことはゆるしてはいけない!」と怒っています。しかしパウロは「教会の中の人に、そんな人がいてはいけない」とは言っていますが、教会の外の人に関しては「そんなのは放っておけばいい」とも言っています。自分たちの外側の罪に目を向けて怒るのではなく、自分たちの内側にある罪に目を向けてなんとかしなさいと言っています。

現代の教会でも同じことは大なり小なりあるように思います。世の中、世間一般に対して抗議の声をあげつつ、自分たちの非にはあまり目を向けないような。これは教会に限ったことではありません。個人としても、たとえば世の中に対して「不倫はゆるされない!」と叫びつつ、身内の不倫には「まぁそんなこともあるよね」となぁなぁに済ませてしまうような。外に厳しく内に甘く。これはどんな個人でも集団でも陥りがちな悪魔の罠のように思います。
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聖書を信じていない人たちに対して「それは聖書に反している!」と抗議の声をあげても、それは相手には響きません。それよりも自分が聖書に従えているのかどうか、そちらに目を向ける方が有益なことだと思います。だって反対にクリスチャンがお寺さんに「それは仏の教えに反している!」と怒られても「ああそうですか。しかしそう言われましても」と対応に困るだけで、こちらの考えは変わりませんよね。

もちろん、社会に声をあげることも、世間に働きかけることも大切なことです。しかしそれよりも大切なことはまずは自分自身、自分たち自身を吟味することだと思います。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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