2月4日「知ることと知られること」

「そして知ること」「知る」という言葉はしばしば聖書的記述では性的な意味合いがある。アダムはエバを知った。ヨセフはマリアを知らなかった。これらの表現は、多くの人々が考えるように、内気な婉曲語法ではない。それは大胆な隠喩なのだ。最良の知識は完全で個人的な知識の情報ではなくて、それは分かち合う親密さである。 ―― 知ることと知られることが、創造的な行為になる。二人の人間がお互いに心を開き、傷つきやすさという性的関係に似ている。その結果として新たな命の創造となるのだ。スペイン人哲学者ウナムノ(Miguel de Unamuno y Jugo, 1864 – 1936)が次のように詳細に述べている。「『知ること』は事実上生み出すことなのだ。この意味で、全ての生きた知識は知っている男性や知られているものの最奥の存在の融合である。」(クリスチャンの苦闘。ウナムノの引用)。知ることは新しい存在を生み出す。この新たな存在は両者のパートナーとも異なり、それ以上のものの存在を生み出す。子どもは父親か母親かの生き写しではない。子どもは単なる両親の合体ではない。両者には特有なものがあるが、新しい命は予想できず色々な驚きに満ちている。それぞれの独自の人生がある。

この新しく創造された命をもたらすことを性的に知ることとは、わたしたちが祈る時に、何かが起こることを示すために用いられる日常的な体験でもある。すなわち、喧騒から身を退くこと。外の世界に対してドアを閉じ、ゆったりとしたプライバシーを強く主張することである。これは反社会的な行動ではない。利己的な放縦でもない。公の責任を逃れることでもない。それどころか、それは公的な責任の実現であり、文明世界の健全さに貢献することでもある。それは正に創造的なことなのだ。あなたは交通渋滞している車の中でセックスは出来ない。

ミケランジェロはその素晴らしい創造性のために、新生児と匹敵するような絵を描いたり、彫刻することは決してしなかった。
ルネッサンス期におけるレオナルド・ダビンチはその旺盛な創意工夫によって、農民の夫婦が一緒に寝ることだけで、何を生み出すのかを微塵も考えていなかった。
祈る人々とは、この同じ要素で、世界を豊かにし驚きと喜びで自分を超える場所で、創造的なプロセスに身をささげるのである。

わたしの劣(おと)ったもの全てを手放した。わたしはキリストを個人的に知り、キリストの復活の御力を経験するために……
― フィリピの信徒への手紙3章8節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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