3月7日「生ける神に目を注ぎ」


クリスチャンは神の臨在の内に自分もいると確信して礼拝をする。生ける神が支配し、語り、啓示し、創造し、贖(あがな)い、命じ、祝福しておられる ―― その神に目を注ぐことが礼拝なのである。だが、部外者はこの礼拝の様子を観察するが、全くそのようには見ない。部外者は、何人かの人々が人気のない歌を歌い、時折調子はずれに歌い、誰かが古い本を読み、誰かが演説する、そして、その演説は聴き手が興味あるなしに構わず延々と続く……そのように考えている。さらに、部外者は次のことを目撃する ―― 小さなパンと、小さな器に入ったワインがあって、それを「永遠の魂に栄養を与えるもの」として、人々が口にする。それはまるで「いつかは死ぬべき肉体に栄養を与えるもの」として牛肉やポテトを食べるように、それを食べたり飲んだりする。部外者は礼拝をそう考えている。クリスチャンと、教会の部外者とは、果たしてどちらが正しいのだろうか? 神が導いてくださるその御手に従い、神の臨在によって祝福され、神の救いの御業に応える信仰者がいて、神の呼びかけに応じて実際に集っている ―― 礼拝とは、そのようなものなのだろうか? あるいは、礼拝とは「神の目をこちらに向けさせて何かをしてもらおう」と試みる人々による、惨めな、そして時には必死な見え透いた見せかけだろうか?(「列王記上」18章参照)

わたしを見よ! わたしは戸口に立っている。戸を叩いている。あなたは、わたしが呼ぶ声を聞いて戸を開けるならば、わたしは中に入り座してあなたと共に食事をしよう。勝利を得る者は、わたしと共に上座に座ることだろう。わたしが勝利を得て後に、わたしの父の傍で栄誉ある座を占めたのと、全く同じようにだ。
―― ヨハネの黙示録3章20~21節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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