3月5日「取り散らかした家族の部屋」

黙示録に記されている教会は「ビクトリア時代の応接間」のようなものではない。つまり「お客を迎えるべく全てが常に整理整頓されている場所」ではないのである。教会とは、「取り散らかした家族の部屋」である。他人が急に家に入る時には、時折色々な弁解を聞かされる。でも、黙示録の著者である聖ヨハネは弁解しない。確かに、無秩序であるが、それが教会で起こり、わたしたちが住んでいる教会でもある。教会は「ショールーム」ではない。教会は「リビングルーム」である。そこに住む人々は罪人である。「衣服がちらかっており、木工品は手垢にまみれ、カーペットは泥まみれ」である。というのも、イエスが「回心するために招いたのは罪人であって義人ではない」と主張するからだ。 ―― その点に関して、イエスの側で変更した記述はない。 ―― つまり教会とは気難しくこだわる人にとっては「困惑させられる場所」でもある。きちんとした人にとっては「無礼な場所」である。黙示録の中で、聖ヨハネは端的に教会を「ランプ台」と見ている。それらはキリストの光に照らされる場所である。教会自身が「光」ではない。教会には特別に魅惑的なものは何もない。一方、教会には、特別に恥ずべきものは何もない。単純に、教会は「ある」のである。

「立ちあがれ! 深呼吸をせよ! まだ命があるかも知れない。
わたしはあなたの忙しさを見ていると、それが分からない。
神の仕事は何も完了してはいないのだから。」
―― ヨハネの黙示録3章2節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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