【断片から見た世界】『告白』を読む「『限界状況』と精神の生」

「苦しむこと」をめぐる思索:フランクルからキルケゴールへ

強制収容所における悲惨を体験したV・E・フランクルは、「苦しむこととは、何かを成し遂げることである」という思想へとたどり着きました。

「苦しむことの意味が明らかになると、わたしたちは収容所生活に横溢していた苦しみを、『抑圧』したり、安手のぎこちない楽観によってごまかすことで軽視し、高をくくることを拒否した。わたしたちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようとは思わなかった。わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげることという性格を帯びていた。詩人のリルケを衝き動かし、『どれだけ苦しみ尽くさねばならないのか!』と叫ばせた、あの苦しむことの性格を帯びていたのだ。リルケは、『やり尽くす』というように、『苦しみ尽くす』と言っている……。」

ところで、フランクルよりも百年前の時代を生きた哲学者であるキルケゴールもまた、これと同じ物の見方に基づいて自らの思想を掘り下げていたと言えるのではないだろうか。今回の記事では、『不安の概念』の言葉に耳を傾けつつ、この点をめぐって考えてみることにしたいと思います。

「最高の学び」としての不安:キルケゴールの主張とは

『不安の概念』最終章の冒頭部分において、キルケゴールは次のように言っています。

キルケゴールの言葉:
「グリムの童話のなかに、『不安な気持ちになること』を知りたくて、冒険の旅にでる若者の話がある。さしあたって、この冒険の旅をする主人公が、その旅先でどれほど恐怖すべきことに出会ったか、などの問題については、この際われわれにとってはどうでもよいことである。むしろこの際わたしが言いたいのは、不安な気持ちになることがどんなことかを知っておくことこそ、誰もが通過しなければならない冒険ではないか、ということである。なぜなら、さもないと人間というものは、いちども不安になったことがないということのために、あるいはひとたび不安のなかに崩れたことによって滅びてしまうからである。それゆえ、不安になることを正しく学んだ者は、最高のことを学んだことになるのである……。」

引用した箇所にもあるように、キルケゴールはこの最終章において、「不安」こそは人間にとって、最高の学びを与えるものにほかならないという主張を展開しています。一見すると常識に反するものであるようにも思われるこの主題に関して、事態を二点に分けて整理してみます。

「不安」なるものは人間を、破滅の可能性によって脅かすことを通して苦しめ続けずにはおきません。ひとたび「不安」に取り憑かれた人間は、「Aという破滅が、わたしを襲うのではないか?」「いや、Aだけでなく、Bという危険も存在しているのではないか?」「AとBは免れたが、実はCという脅威こそが……」と、際限なく新たな可能性に脅え続けざるをえません。彼あるいは彼女を悩ませ続けているAもBもCも、実はある意味ではその人自身の実存という深淵から立ちのぼってくる幻影のようなものにすぎないとも言えますが、「不安=可能性のめまい」に苦しめられる人はこのようにして、延々と自分自身の影と戦うことを強いられるといえます(cf. ハイデガーは『存在と時間』において、キルケゴールの仕事を念頭に置きつつ、この事態を「不安がそれをまえに不安となるものは世界内存在自身である」と表現している)。

② ただし、「不安」による絶え間のない拷問に苦しむ人間は、他でもないこの「可能性の脅威」に打ち叩かれつつ苦しみ続けることを通してこそ、自らの実存の本来性に向かって鍛えられてゆくと言えるのではないか。

ある意味では、「不安」を通して経験されることになる「破滅の可能性」による攻撃は、現実の苦しみ以上に徹底的で、休みないものであるといえます。しかし、人間は実存そのものから生まれ出てくるこの「可能性のめまい」に由来する苦しみを苦しむことを通してこそ、自由と真の安らぎの可能性に向かって鍛錬されてゆくと言えるのではないか。人間存在にとっては、「絶対的に沈む」という経験の中で破滅を可能的な仕方で体験することが、彼あるいは彼女が再びそこから浮かび上がってくるための学びにもなりうる。かくして、キルケゴールの思索においては、根本的情態性であるところの「不安」こそは人間を「信仰=もはや揺らぐことのない『内的確信』」に向かわせ、真の安らぎへと導き入れる機縁に他ならなかったと言うことができそうです(「神の愛への嫁入り持参金」としての「不安」)。

キルケゴール 不安 限界状況

「限界状況」こそが、人間の命を新しい可能性に向かって解き放ちうるのではないか?:実存の極限を思惟することに向かって

キルケゴールの言葉:
「現実性においては、もうこれ以上は沈めないという深さ以上に深く、あるいは前人未到の深さを越えて深く沈んだという例はない。ところが可能性の中に沈んだ者は、めまいを起こし、視力はかき乱され、それゆえ誰かが溺れる者に投げてくれる救いの藁である物差しをもはや掴むことができない。[…]彼は絶対的に沈んだのだ。しかし彼は、またやがてその深淵の底から、現世のありとあらゆる重圧やら恐怖にもうち勝って、軽やかに再び浮かびあがってくる……。」

キルケゴールは、極度の「不安」によって脅かされ続けるという自分自身の経験を通して、「不安」なる事象についての思考を練り上げてゆきました。「可能性の脅威」によって打ち叩かれ、ついに絶対的に沈んでいってしまった精神は、それでも死んで終わってしまうことはない。むしろ、その精神は「存在の超絶」そのものであるところの神への信を手にして、破滅からの救いは人間のあらゆる理性的思考を越え出た領域において起こることを、最後のところで人間を命の内にとどめおくのは、理屈を超えた「わたしはなぜかまだ生きている」に他ならないことを奥底から悟ることになるのではないだろうか。『不安の概念』においては「無限性を先取するところの内的確信」として言い表されていた「信仰」のモメントは、『死に至る病』に至って「自己が、自己自身に関係するとき、そして自己自身であろうとするとき、自己を措定した力に透明に基礎を置いている」という決定的な定式にたどり着くことになります。ここで言う「自己を措定した力」とは、超絶する〈他者〉そのものであるところの神のことを指していますが、彼が到達したこの定式は『存在と時間』におけるハイデガーの「先駆的決意性」の概念と並んで、人間の実存の極限的なあり方を指し示すものになりえているのではないだろうか。この定式のうちには、「他者の超絶」に信を置くことによってかえって自己の本来的なあり方に到達するという、人間の人間性をめぐる重要な逆説が表現されているのではないか。

いずれにせよ、ここにおいて重要であるのは、人間存在にとっては、極限的な仕方で死へと先駆することこそが、彼あるいは彼女を根底的に新しい命のもとで生き始めることを可能にするという実存論的事実に他ならないのではないかと思われます。

先にも述べたように、キルケゴールは自分自身が体験した「不安」の苦しみを通して精神の再生を経験したのち、『不安の概念』や『死に至る病』をはじめとする数々の著作を書き上げてゆきました。彼が自らの哲学の戦いを最後まで戦い抜くことができたのは、彼が「可能性」において幾たびも死に、そのことを通して、もはや決して死ぬことのない「内的確信」へとたどり着いたからなのではないだろうか。「危機」としか言いようのない状態、実存そのものを脅かす「限界状況」の中で、精神の生は徹底的な仕方で鍛え上げられる。人間の実存には、「わたしはもはや何ものをも恐れない」と言うことのできるような生へと至る可能性が与えられているのであって、その可能性を実現するものこそが、まさしく「限界状況」に他ならないのではないか。人間存在はかくして「危機」のただ中においてこそ、何か本来的なものを掴み取ることができるのではないだろうか。二十世紀の哲学はキルケゴールという先人から多くのものを学び取りましたが、この先人の思考を受け取り直すことは、2023年の現在における哲学にとっての課題でもあり続けていると言えるのかもしれません。

おわりに

「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった」と信仰の書は語っていますが、現代の哲学者たちの思索の戦いもまた、一つには、「限界状況」における実存の極限的なあり方を探り出すことに捧げられてきたと言うことができるのではないだろうか。私たちとしてはこの点を確認した上で、アウグスティヌスの『告白』に再び戻ってゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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