【断片からみた世界】『告白』を読む 観念の転覆と、〈他者〉の超絶

「自己自身になること」のうちに宿る秘密とは:『死に至る病』の言葉から

『死に至る病』の最初に書きつけられたキルケゴールの言葉を、もう一度見ておくことにします。

「キリスト教的な英雄精神ー本当にこれは、ごくごく稀にしか見られないものなのだろうーとは、一切を賭けて自己自身になろうとすることであり、一切を賭けて単独の人間に、この単独の人間になろうとすることである。神に直面する一人きりの人間になろうとすることであり、その途方もない尽力のただ中で、そしてその巨大な責任をわが身に引き受けて、ただ一人きりの人間になろうとすることである……。」

「『自己自身』になること」に関して、思索者としてのキルケゴールは果たしてどのような見通しを抱いていたのだろうか。今回の記事では、『死に至る病』の言葉に耳を傾けつつ、この問題をめぐって考えてみることにします。

「『自己』は必然的に、〈他者〉の審級に関係せずにはおかない」:キルケゴールの主張の内実とは

『死に至る病』の冒頭部分において、キルケゴールは次のように言っています。

キルケゴールの言葉:
「[…]関係がそれ自身に関係する場合、この関係は積極的な統一であり、それこそが自己なのである。それ自身に関係するこのような関係、つまり自己は、自分で自分のことを措定したか、あるいは他者によって措定されたか、そのいずれかであるはずだ。それ自身に関係する関係が他者によって措定されたのだとすれば、その関係はもちろん[積極的な統一としての]第三者ではあるのだが、この関係、この第三者がやはりまた関係であり、関係全体を措定したものに関係している。このような派生された、措定された関係が人間の自己であり、それは、それ自身に関係し、それ自身に関係するときに他者に関係する、そのような関係なのである……。」

この箇所を含む冒頭部は本全体の中でも特に難解な箇所になっていて、読者を最初から躓かせかねないものですが、できる限り明晰に論理を取り出すことを心がけつつ、事態を二点に分けて整理してみます。

① すでに見てきたように、「自己」とは「それ自身に関係する関係」、すなわち、「自分自身の実存への『気づかい』」として生起するものに他なりません。つまり、人間が「『自己自身』になる」とは、外へ出ていって何らかの物事を次々と実現し続けることへと際限なく駆り立てられてゆくことよりも、まずもって、自らの「『内なる呼び声』=内的な必然性による呼びかけ」に従いながら自分自身を選び取るところに成立するものなのであって、このことを、キルケゴールはここでは「それ自身に関係する関係」と表現しているといえます(「それ自身に関係する関係」とはこの意味では、ソクラテス的な「魂への気づかい」の形式的な言い換えに他ならないと言うこともできる)。

② しかしながら、この箇所においてキルケゴールが主張しているのは、そのような「それ自身に関係する関係」であるところの「自己」は、その根底においては〈他者〉との関係を通してはじめて真に「自己自身」となるということなのではないだろうか。

ここで言われている「他者」とはキルケゴールにとって、絶対他者であるところの神のことを意味しています。「自己」は、人間の一人一人を愛し、各人の罪に対する赦しを与えることのできる神と関係を結んでゆくことのただ中においてこそ「『自己自身』になる」という務めを十全な仕方で果たすことができるのであって、そのことからの逸脱に由来する苦しみ、挫折や袋小路を「絶望」として描きとるというのが、『死に至る病』の構想に他なりませんでした。人間は孤独の内に閉じこもっているだけでは決して「自己自身」になることはできず、むしろ、〈他者〉に向かって自らの存在を開き、その〈他者〉と関係を持つことを通してはじめて「真の自己」にたどり着けるような存在者なのではないか。「自己」に関するキルケゴールのこの見方は、2023年の現在の哲学にとってもなおも問題提起の力を失っていないと言うことができるのでしょうか。

「『生きることの根源的な意味』は、人間が自らの心の内に閉じこもっているだけでは決して明かされることはない」:キルケゴールの主張が指し示すもの

キルケゴールの言葉:
「自己は、自分一人では平衡にも平安にもたどり着けないし、そんな状態でありうるものでもなく、むしろ自己自身に関係するときに関係全体を措定した他者[であるところの神:引用者注]に関係することによってのみ、そうしたことが可能なのである……。」

一面において、「自己」が「自己」であるということを支えているのは、自己自身であろうとする「意志」に他なりません。だからこそ、「自己」について語られる際には、哲学の領域においても、人間の「単独者」としての側面に強調が置かれるのが普通です。この面から見ると、人間の実存というのは内面の孤独において「汝はいかにすべきか?」が絶えず問われ続ける、どこまでも閉じた性質を持つものであるようにも思えてきます。

しかしながら他面において、恋愛の体験、あるいは教育の場面など、人間の実存そのものが際立った仕方で問われるような経験においては、人間は自らの意識を超えたところに存在する〈他者〉と特異な関係を取り結ぶことになるのではないか。愛すること、教えを受けることといった経験を通して、人間の「自己」のあり方は根底から揺るがされ、問い直され、造り変えられてゆくのであって、こうした経験の事例は、「自己」なるものがその本質において〈他者〉の審級と切り離せないものであることを示しているのではないだろうか。「存在の超絶」そのものであるところの〈他者〉は、「自己自身になる」という出来事の生起を考える上で決して無視することのできない契機に他ならない。『死に至る病』におけるキルケゴールの主張はこの点からすると、2023年の現在においてもなおその可能性を汲み尽くされてはいないと言うこともできそうです。

これらのことに関しては、これから「絶望」の問題を追う中でさらに掘り下げてゆくことになりそうですが、とりあえず指摘することができるのは、「生きることの根源的な意味」は、人間が自らの心の内に閉じこもっているだけでは決して明かされることはないという実存論的事実なのではないだろうか。

「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ」というアウグスティヌスの言葉は確かに、人間が「絶望」の苦しみから解放されて「幸福」へとたどり着く上で、決定的な重要性を持っているといえます。しかしながら、「自己」の内面に還帰することは孤独の内へと閉じこもることをいささかも意味しないのであって、むしろ、人間存在は自らの「心」に向き合うことを通して、はじめて本当の意味で〈他者〉に出会うことができるのではないか。「存在の超絶」であるところの〈他者〉に出会う時にこそ、人間はそれまで生きていた自らの世界を覆され、「彼方」から根底的に新しい実存の可能性を啓示されることになる。「『自己自身』になる」とは従って、その本質からして〈愛〉の次元との関わりなしには決して成り立ちえないものなのではないか。実存する主体の内で〈愛〉そのものの観念を根底から揺るがす「〈他者〉の超絶」こそが、「意志」が新たに生まれ直すという出来事を深いところから支えるのだとしたら、どうだろうか。これらの点に関しては、これからアウグスティヌスとキルケゴールの思考が重なり合う地点を探りつつ、じっくりと探ってゆくことにしたいと思います。

おわりに

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と信仰の書は語っていますが、「絶望」の奥底から「自己」が新たに生まれ出てくるという出来事の構造と論理を探ることは、哲学の営みに与えられた課題でもあると言えるのではないだろうか。私たちとしては、もう少し『死に至る病』におけるキルケゴールの言葉に耳を傾けつつ、この問題を掘り下げてみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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