【断片から見た世界】『告白』を読む 「遺産」を受け継いで生きること

人間存在にとって、「歴史を生きる」とは何を意味するのか?:「哲学の元初」へと進んでゆくことの必然性を探る

私たちは、「存在の意味への問い」を問い進めることを通して、「哲学の元初」を探求することの必然性にまで行き着きました。前回の記事でも参照しましたが、ハイデガーはこの「元初」なる出来事について、次のように言っています。

「存在はどうなっているのか?と問うことーこれはわれわれの歴史的–精神的現存在の元初を反復し、それを別の元初へと変身させることにほかならない。このことは可能である。それどころか、これが歴史の決定的形式である。というのは、これは根元の出来事の中にきざすものだからである……。」

しかしながら、哲学の営みにとって、自らの歴史の始まりを問うことは果たして、絶対に必要なことなのだろうか。今回からの記事では、「人間存在にとって、『歴史を生きる』とは何を意味するか?」という問いをめぐって考えてみることにします。

「実存の本来性は、『遺産の伝承』として実現される」:『存在と時間』における「本来的歴史性」のモメント

1927年に出版された『存在と時間』の第74節において、ハイデガーは次のように言っています。

「現存在の本来的歴史性」に関する、ハイデガーの考察:
「決意性にあって現存在はじぶん自身へと立ちかえる。その決意性が開示するのは本来的に実存することにぞくする、そのときどきの事実的な可能性であり、それをしかも決意性が被投的な決意性として引きうけている遺産にもとづいて開示するのである。[…]すべての『善きもの』は相続財産であり、『善さ』という性格は本来的実存を可能とすることのうちに存している。そうであるとすれば、決意性においてそのつど或る遺産の伝承が構成されるのである。」

この箇所においては、現存在、すなわち人間の実存の本来的なあり方は「『歴史』を生きること」として実現されるのであり、それも、「『遺産』を受け継いで生きること」として実現されることになるという主張が展開されています。ここでは、二点に分けて事柄を整理してみることにします。

実存がおのれの本来的なあり方にまで行き着くとき、その実存は、常に自分自身の「これ以外にはない生き方」へと立ち返ります。『存在と時間』において、「決意性=実存の本来的なあり方」とは、「良心の呼び声」に、自分自身の心の内へと、自分自身の思惑を超えて到来する「内なる呼び声」に聴き従う実存のあり方を意味します。この「内なる呼び声」は常に「他の誰でもない、あなた自身の『状況』を生きよ!」と人間に呼びかけてくることになりますが、この呼び声に聴き従うことを決意している人間は、自らの事実的な〈現〉の内へと、すなわち、自分自身が投げこまれている一回限りの「この生のこの『状況』」の内へと、逃げることなく立ち戻ってゆくことになります。

② そして、この「自己自身への立ち返り」は必然的に、「おのれに向かって手渡されつつある遺産を受け継ぐこと」として実現されることになるのではないか。なぜならば、人間存在の〈現〉のうちには常に「これを真正な仕方で受け継ぐことによって、本来の『あなた自身』となれ!」と呼びかけてくるさまざまな「遺産」が存在しているのであって、哲学の場合で言うならば、思索の道を歩む人間は、過去の哲学者たちが残したさまざまな言葉や書物、そして何よりも、彼ら自身が残していった「生きざま」に、すなわち、本来的な仕方で反復されるべき実存の可能性に取り巻かれています。「内なる呼び声」に聴き従う人間はこの〈現〉からの必然的な呼び促しに応答するようにして、自分自身に与えられた「遺産」を伝承することになるというのが、上に引用した箇所におけるハイデガーの主張であるものと思われます。

哲学する人間にとって、「遺産を受け継ぐこと」とは何を意味するか

論点:
人間存在が自分自身の「生きることの意味」に到達するためには、何らかの仕方で歴史に向き合うことが必要なのではないか?

『告白』におけるアウグスティヌスの場合もそうでしたが、哲学することに取り憑かれた人間は、ひたすらに書物の言葉を探し求め続けるという運命を背負うことになります。というのも、「わたしが生きる意味はどこにあるのか?」という問いに苦しめられ、自分自身がこの世界の内にとどまり続けることの理由が分からなくなっている彼あるいは彼女にとって、この世の物事は、その理由も分からないままに悪夢のようにして人間を駆り立て、追い込み続けるものでしかなくなっているからです。哲学することへと向かっている人間にとっては、「人生は自殺以上のものであるのか?」という問いに正面から答えを与えてくれそうに見えるのは、ただ歴史上の先人たちが残した言葉や「生きざま」だけであるように感じられています。彼らはそれぞれの仕方で「生きることの意味」をめぐる問いに、その実存そのものを通して答えようと試み続けました。すでに見たように、「自らが傷ついてまでも与える〈愛〉」の存在に出会ったアウグスティヌスにとっては、彼よりも百年ほど前の時代を生きたプロティノスこそがそのような先駆者の一人に他なりませんでしたが、哲学の道を行く人間は、死に物狂いで知ることを求め続けるならば、必然的にそのような先駆者たちに出会うことになるのではないだろうか。

こうしたことは、「哲学の元初」のあり方を探るという課題を持っている私たちにとっても、小さからぬ意味を持っているのではないかと思われます。なぜならば、「存在の意味への問い」を抱きつつ「元初」を問うことは、「はじまりの思索者たち」が残した遺産を受け継ぐことを通して、哲学する人間が「自分自身が哲学することの理由」に到達することと、そのまま重なり合ってゆくのではないかと予想されるからです。

「存在」の、「ある」の衝撃に目覚めさせられることによって、哲学の営みは始まった。この衝撃によって、人間はもはや後戻りすることのできない仕方で「知恵」なるものを求め始めたのであって、「形而上学」なる学の見果てぬ探求の痕跡は一度限りの歴史の「遺産」として、哲学する私たちの手元にまで伝えられているのである。私たちの時代は今日、先人が語った「形而上学の終焉」のただ中を漂っているように見える。すなわち、哲学する私たちはもはや問うべき問いも、そのために生き、そのために死ぬイデーをも持つことのないままに、「私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか?」と自問し続けているのではないか。「哲学の元初」を問うことが何らかの意味を持つものであるとするならば、この探求は、「ある」の根源的な意味にもう一度出会い直すのでなければならない。「はじまりの思索者たち」の残した言葉と格闘することを通して遥かな時を遡り、他の誰でもない自分自身が哲学することに取り憑かれることとなった、そのそもそもの始まりであるところの「元初の〈出来事〉」に、「形而上学」なる探求が開始されたその地点に行き着いた時にこそ、哲学する人間には、自分自身の「生まれてきたことの意味」もまた十全な仕方で明かされることになるのではあるまいか。もしそうであるならば、「元初」をめぐる探求は、哲学する人間の「わたしは生まれてくるべきではなかった」を、「わたしはこの務めを果たすべく生まれてきた」へと変容させずにはおかないものと思われるのである。この意味からすると、人間存在にとって、自らに与えられた「歴史」を引き受けることとは、そのまま「被投性=この世界に投げ込まれていること」の謎に対して、自分自身の実存そのものを通して根源的な仕方で応答しようとする試みでもあると言えるのかもしれません。

おわりに

ハンナ・アーレントは、自分自身が哲学の学びを始めた時代を振り返りつつ、「哲学はパンを得るための学ではなく、むしろ、飢えている者たちが断固学ぼうとした学であった」との言葉を残しています。彼女の場合、マルティン・ハイデガーという運命的な教師に出会ってしまったことが彼女に後戻りすることのできない探求の道へと進ませる結果をもたらしましたが、2023年の現在において思索することへと向かっている私たちにとっても、哲学は、他の何をおいても断固として学ぶべき学であり続けているのだろうか。私たちとしては『存在と時間』の言葉に引き続き耳を傾けつつ、「歴史性」の問題を掘り下げてみることにします。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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