【断片から見た世界】『告白』を読む 「存在」の問題圏へ

「声」は語る:「ミラノの見神」から存在の哲学へ

『告白』の叙述によると、真理の探求のうちで「不変の光」を目にすることになったアウグスティヌスはこの出来事に引き続いて、天上から響いてくる声を聞いたように思ったといいます。

「そしてあなたは、激しい光を注いでわたしの弱い目をくらまされたので、わたしは愛と恐れで身をふるわせた。そしてわたしはあなたとはまったく異なる世界にあって、あなたから遠くはなれているのを知り、天上からあなたの声が聞こえるように思った。『わたしは大人の糧である。生長してわたしを食べられるようになれ。お前はわたしを、お前の肉の糧のように、お前に変えないでお前がわたしに変えられるであろう……。』」

この箇所の直後に起こった「声」からの呼びかけの場面は短いものであるとはいえ、アウグスティヌス自身の探求にとって、そして、哲学そのものの歴史という観点から見ても非常に重要なものであるように思われます。今回からの記事では、この点から「ミラノの見神」の内実に迫ってみることにします。

「わたしは存在するものである」:アウグスティヌスの中で、ドクサが崩れ去ってゆく

アウグスティヌスによる証言:
「そこでわたしは、『真理は有限の空間にも無限の空間にもひろがらないから、無であるのではなかろうか』とたずねた。そうすると、あなたははるか彼方から、『わたしは存在するものである』と叫ばれた。」

いま引用した部分から読み取ることができるのは、「ミラノの見神」の経験はアウグスティヌスにとって、「存在する」ということそのものの意味が揺るがされるような衝撃をもたらす出来事であったということにほかならないのではないか。

それまでのアウグスティヌスにとっては、「存在するもの」の領域はもっぱら物体的なもの、空間的なものの範囲に限られていました。このことは必ずしも、彼自身が自覚的に「わたしは自分自身の信条としては物体的なもの、空間的なものの存在しか信じない」と思い決めていたということを意味しません。むしろ、彼自身も気づかないうちに、「存在する」という事柄に関する先入見が、彼のものの見方を、そして、彼の生き方そのものをも規定していたという方が実情に近いのであって、それまでの彼はいわば、自分自身のうちで暗黙のうちに支配権を振るっているこの先入見(〈ドクサ〉)に知らず知らず従属していたのであると言うこともできるかもしれません。

その一方で、実存そのものを賭けるようにして行われていた哲学の探求を通して、アウグスティヌスの心の中では、彼自身がそれまで保持し続けていたこの先入見は次第に問いに付されるようになってゆき、崩れ落ちつつありました。上に引用した箇所で、アウグスティヌスが「わたしは存在するものである」という声を聞いたのは、そのような「〈ドクサ〉の解体」の過程のただ中のことに他ならなかったと見ることもできそうです。ともあれ、彼自身は上に引用した箇所に引き続いて「わたしはこの声をあたかも心で聞くように、聞いたので、疑いの余地はまったくなくなった」と当時のことを振り返っています。「ミラノの見神」は、それまでの哲学の探求の成果を前提にしながらも、彼自身の思いを超えるような「全き驚異(〈タウマゼイン〉)の出来事」として降りかかってきたと言うことができるかもしれません。

「他者が言葉を語る」という出来事は、実存する一人の人間であるところのわたしにおいて、〈ある〉ことの意味への目覚めとして生起する

論点:
「〈他者〉が存在する」という事実との出会いは、〈ある〉ことそのものの意味への目覚めを引き起こさずにはおかないのではないだろうか。

回心を経た後のアウグスティヌスが彼の実存そのものを賭けて深くコミットしてゆくことになる、旧約聖書の『出エジプト記』3章14節において、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と自らの名を顕しており、先ほど引用した箇所は、まさしくこの名に呼応するものとなっています。すでに述べたように、アウグスティヌスの探求にとって、「わたしは存在するものである」という声との出会いは、彼自身がそれまでに抱いていた「存在」概念を揺るがすような衝撃を引き起こす出来事に他なりませんでしたが、この事実は、〈他者〉なるものが単に数ある存在者の中の一つの類やカテゴリーにとどまることなく、〈ある〉という言葉の意味そのものを転覆させてしまわずにはおかないような「存在の超絶」の圏域の住人に他ならないことを示唆しているのではないか。

ここで改めて、私たち自身の日常のことを考えてみます。いま、普段から親しくしていたはずの隣人の一人が、わたしには理解することのできない言葉を会話のうちで発したとします。その言葉は、発されたその瞬間にはそれほど気になることはありませんでしたが、時間が経てば経つほどに少しずつわたしの気にかかるようになってきて、「あの時、あの人は何を感じ、考えていたのだろう」という思いを引き起こすようになってゆきます。こうした時に、沈黙と孤独の静けさを通してわたしに語りかけてくるのは、個々の事柄や事情を超えて、何よりもまず他者の「わたしは存在するものである」に他ならないと言えるのではないか。ここにおいては、他者の〈ある〉こそがわたしに、それまでのわたし自身の意識を超え出るような仕方で考えることを求めてきているのではないだろうか(「隣人たちの存在が、脱我を引き起こす」)。

〈他者〉から発される「わたしは存在するものである」はかくして、実存する一人の人間であるところのわたしに、存在するということそのものに対する理解の転覆を迫るものであると言うこともできるのかもしれません。〈他者〉が顕現し、その顕現の出来事のただ中においてわたしに向かって言葉を語るとき、その言葉は、わたしがわたし自身の意識の内へと閉じこもるのを許すことなく、わたしに対して、わたし自身の意識の「彼方」へと赴くようにと呼びかけてきます。単独者であるところのわたしが、このように呼び出されて耳にすることになる言葉こそ、〈他者〉の「わたしは存在するものである」に他ならないのであり、この聴取の出来事は、「存在の超絶」そのものの啓示として生起せずにはおかないのではないか。〈ある〉ことそのものの啓示は、ある意味ではわたし自身の存在をもはるかに超え出るような衝撃あるいは召命として、「呼び出された人間」であるところのわたしを実存の奥底において変容させずにはおかないのではないだろうか。「ミラノの見神」をめぐる箇所は『告白』の探求の道行きにおいてもこの上なく重要なターニング・ポイントの一つをなしていますが、この箇所はまた、思索そのものに求められているところの「『存在の意味への問い』への転回」を考えてゆく上でも極めて貴重な手がかりを与えるものであると言えるのかもしれません。

おわりに

「わたしはある。わたしはあるという者だ」という言葉はこうした観点から捉え直そうと試みてみると、無数の言葉の中の一つであるというよりも、むしろ「言葉の中の言葉」に他ならないのであって、この言葉こそは、言葉の本質そのものを端的に示すような言葉なのではないかとも思われてきます。私たちとしては、現代の哲学にとって「存在の意味への問い」が問うべき問いとしてすでに提起されていることをも念頭に置きつつ、もう少しこの箇所に踏みとどまって考えてみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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